doi_iku’s blog

LINEブログから引っ越しました。

民主主義は偉人を創り出す

先日、在外中国人の言動を取り締まる「中国秘密警察」の拠点が日本にも二か所あり、彼らを抑圧していると報じられました。中国政府は当事国の主権を無視して言論を封殺し、共産党批判など存在しないかのように装っているようです。

かつてケインズは、株式投資美人投票(コンテスト)に似ていると述べました。自分が誰を美人と思うかではない、他の多くが好んでいる候補を選ばなければ価値を失うというわけです。

派手な惹句やニヒリズムの漂う一節ですが、現代社会には確かにこの暗い一面があるようです。すなわち物事の本質や真価ではない、他の多くがどう見るか、どう評するかが決め手であり、それゆえインサイダー情報どころか、デマの流布、情報統制、言論封殺などの手法が絶えることはない…。

GケナンはI・バーリンの《二〇世紀の政治思想》(1950)という著名な論文について「我々の時代に関する重要な意見表明の一つ…」と彼宛の書簡で評しました。これに対してバーリンは、自らがファシズム共産主義を嫌悪する理由として、両者に共通する道徳的冷笑、普通の人間に対する軽蔑をあげた(Ⅿ・イグナティエフ)。また、自分の道徳観の核心には、人間の道徳的独立性の権利を拒もうとする試みへの嫌悪があるが、両者はその信奉者を教化し、敵を抹殺しようとする罪を等しく犯している…。

さらに、バーリンによれば、

人は、他の人々が自分についてどう考えているか、他の人々にどう見られているか、自分たちの行動は好意的でないように見られていないか、あまり目立ちすぎていないか、自分たちは受け入れられているのか…等々について、不断に不安でいなくても済むような国でしか、自由は発展できない…。

どうやら自由を否定し、批判を封殺し、言論を抑圧する考えの底には「道徳的独立性への冷笑」「普通の人間に対する軽蔑」があるようですが、G・K・チェスタトンは、小説家ディケンズを論じて次のように述べました(1906)。

この世には、他人に、自分は何と卑小なのかと思わせるような偉人がいる。しかし真に偉大な人物とは、他人に、自分は偉大なんだと感じさせる人のことである。

19世紀前半の精神は偉人を生み出したが、それはこの時代が人間とは偉大であることを強く信じたからだ。この時代の教育、慣習、修辞法のすべてが、万人の中にある偉大さを奨励した。あらゆる偉大な人物がこの平等という雰囲気から現れた。「偉人は専制政治を創り出すかもしれない。しかし民主主義は偉人を創り出すのだ」

ほんの一瞬で構わない、かの時代の希望や、社会の混沌とした活気ある変動に共感を覚えてみよう。昔、ダンテは地獄の門の上にこう書いた、「ここに入る者みな、その希望を捨てよ」と。

けれども、現代では、ほんの一時間でも、この黙示録的な銘文を消さなければならない。父祖に関する信仰心を再生しなければならない。

自分は明晰な思考の持ち主などという不吉な考えは忘れよう。知っているつもりで実は命取りになるような歪んだ知識は否定しよう。

「ここに入る者みな、その絶望を捨てよ」

ケナン、バーリン、そしてチェスタトンの論理に従えば、父祖の時代からつづく自由と民主主義の信条、すなわち弱い人々を励ますことで真に強い人々を創り出すこと、さらに他の評価が全てなどという「道徳的冷笑」「道徳的独立性の否定」から脱却することが、かの権威主義全体主義を否定し、訣別し、やがては崩壊させる、思想的な根拠となるのではないでしょうか。