doi_iku’s blog

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政治とは「永遠の存在を求める」行為

歴史のことば劇場74

いまだに裏金やら党紀委員会やらの話題が世間を騒がせていますが、

こんな報道ばかりでは立派な議論も陳腐な議論も区別つきません。「裏金脱税」のイメージが強調され、いったい誰がどの政策にどう貢献したか、あるいは反対したかなどの詳しい解説は非常に少ない。

 じっさい政策の詳説よりも「裏金」報道の方が、社会の発展・向上に大きく貢献し、庶民の生活を改善するのでしょうか。

 かつて高坂正堯は「日本の報道機関は議会民主主義を育てるための不断の努力は怠りながら、危機に際してだけ雄々しく叫ぶことになっている」と述べました。

 また、日本ほど社会が悪いなどの「理屈が横行している国は珍しい」

 それは「自明の前提であり、きまり文句」である。だから「現代人は、不満をいだくほどの生活苦が現実になくても…漠然たる不満を生活苦というきまり文句によって説明する」ようになる。

W・リップマンによれば

「民主主義は世論を神秘にしたてた。民主主義の理念を口にする人々――学生、弁舌家、編集者――の傾向は、かつて人々がものごとの方向を決する神秘的な力とみなしたように、世論をみることだ」。

しかしその「神秘的」な世論を信じることは、心の安らぎを与えはしても、人々を正しく導くことはないようです。マスコミは正確に報道するよりも、自覚しないほど一般化した思考様式に合わせて事実を見、かつ報道するからです。

いっぽうE・バークは、本来政治家は主教と同じく神聖なる職務を遂行していると考えました。「人間の統治に携わるすべての者は神の代理であり…職務と目的について高邁な理想を持ち…統治者の望みは不朽の名声を得ることであるべきだ。統治者が一時的なはした金や、はかない大衆の称賛を求めるべきではない。統治者は永続的なる自然の中にあって、確固とした永遠な存在を求めるべきであり、この世界に豊かな遺産として模範を残す形で、永続的な名声や栄光を追求しなければならない」(R・カーク)

しかも民主制では君主制や貴族政にましてその神聖さが必要である。人民が権力の一部を共有するだけに、権力に伴う責任をより一層深く理解しなければならない。

「権力にあずかる人間は皆、信頼に基づいて行動するよう肝に銘じ…信頼を元にした行為について、唯一無二の造物主にして社会の創始者である神に対し、申し開きをしなければならない」(同)

 政治とは「確固たる永遠の存在を求める」行為であり、「きまり文句」の連呼や一般化された思考様式で推し量れるものではないようです。

まして大衆迎合や金銭を目的とせず、権力に伴う責任を自覚し、「世界に豊かな遺産として模範を残す」べきである。

しかしながら現今のマスコミがその「永遠の存在」を求めて報道しているとは到底思えず、

それは政治家の責任ばかりではなく、我々一般国民もまた「確固たる永遠の存在のための」政治との基本原則を見失っているからではないでしょうか。