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忘れられた「初心忘るべからず」の真意

歴史のことば劇場71

「初心忘るべからず」―

この世阿弥の有名な教訓のほど、誤解されている言葉もないようです。

それは「けっして初心のまじめな情熱や覚悟を忘れるなという道徳的な教えではない。むしろ初心の藝がいかに醜悪であったか、その古い記憶を現在の美を維持するために肝に銘じよという忠告」(山崎正和)でした。

じっさい、世阿弥の『花鏡(かきょう)』(1424)には

「是非(ぜひ)の初心忘るべからず…『前々(ぜんぜん)の非を知るを、後々(ごご)の是とす』と云へり…。初心を忘るゝは、後心(ごしん)を忘るゝにてあらずや(初心時代の未熟さを忘れるのは、以後の藝をも忘れることではないか)」とあります。

また「時々(じじ)の初心」「老後の初心」とも呼んで、そのときの苦しい格闘の境地を忘れるなと強調します。

「…現在の藝の水準を維持するために、世阿弥は美しい未来の夢よりも過去の醜悪な姿を思い出せと奨める……

美しい藝はつねに『初心』の不安のもっとも鋭いとき…醜い不適応状態と背中合わせにこそ生まれる……不適応の不安を忘れたとたん藝は確実にさがる」のだ(山崎)。

秘すれば花なり」―これも『花鏡』によれば、

観衆がよく批評して「せぬ所が面白き」と言うが、それは役者の内心ふかく秘めた心のはたらき、油断なく心をつなぐ心根をさす。舞をやめる間隙、謡をやめる空白、せりふ、演技などあらゆる隙に、少しも気を抜かず、内心の緊張を持続せよ。すると奥の充実や緊張が、しぜん外に出て、面白いと思わせる。

しかしそれは決して外に見せてはいけない。表現の意図のみならず、内面の緊張さえも隠さねばならない。

「無心の位にて、我(わが)心をわれにも隠す」べし、と。

 いうならば、花は「無心」に咲くもので、自然の美はことさら主張を感じさせません。花が美しいのは「みずからの脆弱さと執拗に闘っているからにほかならず」、

世阿弥のいう「まことの花」とは「内面的な、隠された充実として発見された事実を見逃してはならない」(山崎)

 「離見の見」―これも外側から客観視する意味ではありません。

 見えないはずのものを見ること、自らが観衆と同じ眼となり、肉眼で見えない所まで見きわめ、五体の美を完成させよ

(「見所(けんしょ)同見と成(なり)て、不及目(ふぎゅうもく)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし」)と。

 世阿弥によれば、当流の奥義は「初心」の「心底」を伝えることだが、

しかし我が子であっても不器量(天分のない)の者に伝えてはならない。

「家、家にあらず、継ぐをもて家とす。人、人にあらず、知るをもて人とす」

 

家督そのものは家ではない。藝統を承(う)けてゆくのが家である。

単なる人は人ではない。道を知るのが真の人である(小西甚一)。

 秘伝は家業の独占にあらず、自らの未熟や制約を超えて大きな生命の秩序につながるのが「道」であり、

そうした「道」の継続と発展を支える、秘めたる数々の工夫の要諦が「初心忘るべからず」の訓戒であったことは、

現在では殆ど忘れられているのではないでしょうか。