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自由主義は「共通の利益」「共通善」をめざす

歴史のことば劇場73

 ウクライナガザ地区での戦闘はいぜん終わりが見えず、妥協の余地も見いだせないようですが、通常、外交では、

敵を壊滅させるよりも妥協する方が利益があり、「利害の対立」と同時に「利害の一致」が存在する(H・ニコルソン)といわれます。

 けれども、利害や道徳に反しても実力に訴えるのは、それだけ正当性を確信させるもの、

ホッブズやルソーのいう自尊心や道義的課題が人間には存在するからと考えられます。

 ルソーによれば「共通の利益」とはすべての国にとって魅力がない。

 人間は他者と比べてどれだけ多くの(あるいは少ない)価値を得るかという「見せかけの利益」にしたがって行動する。

 他者に優越する利益のためには努力するが「共通の利益」のためには動かない。このため「利害の妥協」は困難になる(高坂正堯)。

 ルソーは人間を最も動かすものは自尊心とし、他よりも恵まれるために行動すると見る一方で、

しかし「ヨーロッパの体系は…それを完全に転覆せしめず、絶えざる動揺のなかに…維持しかねない強度をもつ」と、

闘争が制限される「体系」が存在し、このため「害悪が大きくならなければ…一大革命は可能とはならない」とも述べました。

 この革命や闘争を制約する「体系」とは、一つには経済的な思考が考えられ、

例えば自由貿易の立場では、富や資源は有限であるとする「ゼロ・サム・ゲーム」の考え方は否定されます。

 反対に「プラス・サム・ゲーム」、一方が得をすれば他が必ず損する訳ではなく、参加者全員に利益があるとの考えが前提になります。

 また富は有限とするゼロ・サム思考は、自由貿易に反対する重商主義統制経済の前提であり、

他国が輸出を伸ばせば、自国は輸出を減らし、貧しくなり、

強い軍事力を持つことが、資源を持ち、貿易を伸ばし、富を増大させると、軍事力と富との相関関係を重視します。

 しかしA・スミス流の自由貿易論は、国防を重視しながらも必要以上の軍事力に批判的で、植民地の獲得にも反対した。

 富と軍事力の相関関係を疑い、共通のルールの下、皆が競争により利益を追求すれば、長期的には皆が豊かになるとのプラス・サム的な「共通善」を求めました。

 はたして人間は、他と比べずには、他を攻撃せずには、生きていけぬものなのか。旧ユーゴ紛争などの取材で著名なジャーナリスト、Ⅿ・イグナティエフ

「人ではなく法による、力ではなく議論による、暴力ではなく和解による統治とは、本来、ヒトの本性に深く反するものであり、これを達成し、維持するには不断の努力で本性を克服するしかない」と述べました。

 こうした人間の本性に反している「共通の利益」「共通善」「法」や「和」を見出し、大方の繁栄と安定をめざしたのが、自由主義の歴史伝統であり、

その対極にあるのが、ホッブズやルソー的な闘争と全体主義の思考法で、現今では権威主義といわれる諸国による覇権の体制と考えてよいのではないでしょうか。

「核」「冷戦」の時代と古典外交への回帰

歴史のことば劇場72

 ウクライナガザ地区では激しい戦闘が続いていますが、核兵器はいぜん使われていません。かつて「ソ連封じ込め」を提唱したG・ケナンは、世界大戦や総力戦は「核の出現」によって終焉すると述べました。

 ケナンによれば、南北戦争米西戦争、二度の世界大戦などの前例は、米国の兵士や「多数の国民の胸中に、戦争の通常の目的とは、敵の抵抗の能力と意思を全面的に破壊し、無条件降伏を求めるにあるとの考えを、言わず語らずに植えつけ…勝利は、敗れた敵手に対し、全面的な服従を命令する地位に自分を置くこと」となった。

 しかし、この構想は「明らかに非現実的」となった。核は「自殺的戦争か無差別破壊の戦争かの…いずれかの道を生むしかない」「このことは、はるか昔の思想に回帰することの必要性を教えている」

 総力戦は「19世紀と20世紀の原則であった。今こそ18世紀の限定戦争の思想に回帰し…戦争の目標も限定されねばならない」

 我々はタレイランの「諸国民は、平和時には互いに最大の善を…戦争には、可能な限り最小の悪をなす…」という思想に「回帰すべき」であろう。

「ギボンは18世紀の西欧文明における力の要素を例に挙げ、西欧諸国が、控え目な、決定的でない戦闘で訓練された事実を挙げた。…軍事力による強制の策略も、将来は政治的目的の追求には絶対的ではなく、ただ相対的な価値しかないことを人は知らねばならない」

 また1947年1月、次のように「仮定」した。

 米国は核兵器を「我々に対して行使されるのに対する報復として以外には、絶対に行使しないであろう」「他の国民に対して、いわれなく、侵略的に行使することを絶対に認めないであろう」

 以上「二つの判断」から想定される「平和時」の兵力編成は「それは少数の、コンパクトな、警戒部隊の維持に重点を置くもので…(米国の)海岸線からはるかに離れた限定作戦地に対し、効果的な打撃を与えることができる程度の能力…我々の武力の最大の価値は、抑制手段としてのその性格にある」

 つまり「海兵隊の強化、三軍相互間の協力の強化…機動部隊の維持」であり、もしこの「武力を保持しなければ、どこかの無法な連中に、我々がすぐには手を出せないから…大きな顔をして占領し…目的地を奪取しようなどと欲望を起させる」。

この現今にもいたる兵力編成をケナンが予見したのは、冷戦開始直後のことでした。

 彼の論理に従えば、核の出現により世界戦争は終わり、限定戦争へ回帰し、米国をはじめ自由主義陣営では「抑制手段」としての兵力編成となった。

 もはや一方的な侵略などは認めず、正当な権益は尊重するが、その発展を既存の権利と勢力均衡の枠内に抑制する。

 それはまさに古典外交の思想(高坂正堯)への回帰であるとともに、

現今のウクライナ戦争の「新冷戦」、自由主義陣営の「強い結束」、あらゆる機会をとらえての文化的・道徳的な紐帯の形成へと受け継がれているのではないでしょうか。

忘れられた「初心忘るべからず」の真意

歴史のことば劇場71

「初心忘るべからず」―

この世阿弥の有名な教訓のほど、誤解されている言葉もないようです。

それは「けっして初心のまじめな情熱や覚悟を忘れるなという道徳的な教えではない。むしろ初心の藝がいかに醜悪であったか、その古い記憶を現在の美を維持するために肝に銘じよという忠告」(山崎正和)でした。

じっさい、世阿弥の『花鏡(かきょう)』(1424)には

「是非(ぜひ)の初心忘るべからず…『前々(ぜんぜん)の非を知るを、後々(ごご)の是とす』と云へり…。初心を忘るゝは、後心(ごしん)を忘るゝにてあらずや(初心時代の未熟さを忘れるのは、以後の藝をも忘れることではないか)」とあります。

また「時々(じじ)の初心」「老後の初心」とも呼んで、そのときの苦しい格闘の境地を忘れるなと強調します。

「…現在の藝の水準を維持するために、世阿弥は美しい未来の夢よりも過去の醜悪な姿を思い出せと奨める……

美しい藝はつねに『初心』の不安のもっとも鋭いとき…醜い不適応状態と背中合わせにこそ生まれる……不適応の不安を忘れたとたん藝は確実にさがる」のだ(山崎)。

秘すれば花なり」―これも『花鏡』によれば、

観衆がよく批評して「せぬ所が面白き」と言うが、それは役者の内心ふかく秘めた心のはたらき、油断なく心をつなぐ心根をさす。舞をやめる間隙、謡をやめる空白、せりふ、演技などあらゆる隙に、少しも気を抜かず、内心の緊張を持続せよ。すると奥の充実や緊張が、しぜん外に出て、面白いと思わせる。

しかしそれは決して外に見せてはいけない。表現の意図のみならず、内面の緊張さえも隠さねばならない。

「無心の位にて、我(わが)心をわれにも隠す」べし、と。

 いうならば、花は「無心」に咲くもので、自然の美はことさら主張を感じさせません。花が美しいのは「みずからの脆弱さと執拗に闘っているからにほかならず」、

世阿弥のいう「まことの花」とは「内面的な、隠された充実として発見された事実を見逃してはならない」(山崎)

 「離見の見」―これも外側から客観視する意味ではありません。

 見えないはずのものを見ること、自らが観衆と同じ眼となり、肉眼で見えない所まで見きわめ、五体の美を完成させよ

(「見所(けんしょ)同見と成(なり)て、不及目(ふぎゅうもく)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし」)と。

 世阿弥によれば、当流の奥義は「初心」の「心底」を伝えることだが、

しかし我が子であっても不器量(天分のない)の者に伝えてはならない。

「家、家にあらず、継ぐをもて家とす。人、人にあらず、知るをもて人とす」

 

家督そのものは家ではない。藝統を承(う)けてゆくのが家である。

単なる人は人ではない。道を知るのが真の人である(小西甚一)。

 秘伝は家業の独占にあらず、自らの未熟や制約を超えて大きな生命の秩序につながるのが「道」であり、

そうした「道」の継続と発展を支える、秘めたる数々の工夫の要諦が「初心忘るべからず」の訓戒であったことは、

現在では殆ど忘れられているのではないでしょうか。

日本的な「自由」の歴史的な由来

歴史のことば劇場70

“日本人は水と安全はタダだと思っている”

とは、イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人とユダヤ人』(1970)の有名な文句ですが、

同書は「日本人は常に自由であった」から「水と安全は無料と思っている」と述べています。

いわく、ユダヤ人が安全に高いコストをかけるのは、宗教的迫害を長く受けてきたからである。

彼らは江戸期の隠れ切支丹みたいなもので、常に迫害される危険があったが、

切支丹以外の日本人にそんな経験はない。

ユダヤ人にとって「城壁のない都市は、殻のないカキのようなもの」だが、

「個人の安全も一国一民族の安全保障も、原則は同じであろう。

しかし日本では、カキに果たして殻が必要なりや否やで始まり…

防衛費などは一種の損害保険で『掛け捨て』になったときが一番ありがたいのだ、ということも…日本では通用しない」

「ああ、日本人は何と幸福な民族であったことだろう」

現今の日本人がこれほど「幸福」で平和ボケかどうかはともかく、

かの”水と安全はタダ”とのフレーズは「日本人の自由」それも「宗教的な自由」から考え出されたものでした。

そういえば、ザビエルは、

日本では「各人が自分の意思に従って望むところの教義」を選んでおり「誰に対しても…改宗させることはしない」と述べたし、

元禄期に来日したケンペルは、

日本では「各人の思いのままに信仰する神を崇める自由が与えられている」と論じた。

秀吉による伴天連(ばてれん)追放令(1587)も、近年では、宣教師やキリシタン大名による度重なる社寺への破壊行為や冒涜が発令の主な原因の一つとされ、

大友宗麟重臣立花道雪は、主君宗麟のキリスト教信仰による神仏排撃を諌め、

「日本は神国と申し候間、是非、公私、御信心、専ら順儀・天道に背かれざるの様、御覚悟あるべき」と諭した(神田千里)。

これ以前にも、他宗派への弾圧を禁ずる分国法があり(今川仮名目録など)、

南北朝期の『神皇正統記』は、人の信心の動機は「品々」で「教法も無尽」、「諸教を捨てず、機を漏さず得益」を弘めるべしと、

「神国」における諸宗共存の多様性が国家利益になると論じました。

ヘーゲルによれば、

国家は、宗教から離れることで「本質的な、自己意識的で理性的性格と人倫性」を発揮する。

いわゆる政教分離、近代国家へと向かう潮流は、西欧ではウェストファリア条約(1648)に始まり、

ルソーは「ウェストファリア条約が…我々の永久に政治制度の基礎となることは確実」と断じました。

彼らの論理に従えば、

古来日本は「神国」の下における宗教的な寛容や信教の自由に似た思想があり、その下で社会全体が理性的・人倫的に運営される「政治制度の基礎」が築かれた。

I・バーリンは「人間がその内部を決して侵されてはならない境界線は、なんら人為的に引かれたものでなく、歴史上長く受け入れられた規則によって定められた」と述べたが、

日本人の「自由」の境界線も「神国」の道徳秩序という「人為的でない、歴史上長く受け入れられた規則」の産物であり、

戦後の「平和ボケの信仰」であっても、この日本人の「歴史的な自由」の生み落とした副産物の一つ、と考えられるのではないでしょうか。

「文明」としての源氏物語

歴史のことば劇場69

一九二・三〇年代、A・ウェイリーによって源氏物語が英訳され、当時の西欧の文学好きは、同時期に英訳されたプルースト失われた時を求めて』とともに源氏を愛読したそうです。

彼らにとって、源氏を読むことはプルーストを読むのと同じく「感覚的に鋭い」「強烈な美的体験」だった(Ⅽ・P・スノー)といいます。

折口信夫によれば、

古代日本の神話では、神々や天皇は祭事のように女と聖婚し、土地の女の持つ呪力や霊力を得ることとで国を統治した。

この古代神話の「色好み」の信仰に準ずるかのように、源氏物語では天皇の子である光源氏の恋愛や盛衰の生涯が描かれるといいます。

光源氏は、父・桐壺帝の妃・藤壺と密通し、子が生まれるが、帝は自らの子と疑わず、溺愛し、その子はやがて冷泉帝となる。

天皇が不義不倫の子という途方もないスキャンダルのもと、中年になった光源氏は、妻の女三の宮に裏切られ、若い男・柏木が産ませた子を我が子として抱く。自分の若い頃の行いと同じ仕打ちを受け、涙する。

「かかる古事の中に、まろがやうに実法なる痴者(律儀な愚者)の物語はありや」(蛍の巻)

物語とは「良きも悪しきも、世に生きる人の、見ても見飽きることなく、聞くも何か心に余る有様を、後の世に伝えたいと思い、一つ一つに心に包みきれずに言いおいたのが始まりである」(同巻、現代語訳)

この一文は古今和歌集「仮名序」の「心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせる…」の発想を受けており、

有名な「日本紀などは、ただかたそばぞかし(問題ではない)」の文言も、この直前に出てきます。

要するに、事実を記した歴史では表現できない、現実にはありえない物語、神話的な人物によってしか表現できない情念が存在するー。

これ以降、王朝文学に源氏物語の世界観は必須となり、源氏に従って新たな表現を生むこと、古典を利用して新しさを出す古典主義的な手法が、日本文学の伝統となります。

後半の宇治十帖では、ヒロイン浮舟は光源氏の子・薫と貴公子・匂宮との板挟みになり、入水し、行方不明になる。

薫はいぜん浮舟に執着するが、出家した浮舟は、自らの一周忌での法要の着物、紅に桜の鮮やかな袿を、死後の世界から振り返るかのようにしみじみと眺める。

薫は藤原道長の嫡男・頼通がモデルとされ、

紫式部は「道長たちが競い合っていた線を突きぬけた自由なところ」に立っていた(清水好子)。

物語は「色好み」の栄華が描かれ、人生は様々に暗転し、やがて反「色好み」、一人の若き女性が政治社会の秩序から「自由」となる境地へと辿り着くー

「あらゆる脱出のうち最もセンセイショナルなもの、あらゆる反逆のうち最もロマンティックなものは文明にほかならぬ」(チェスタトン

源氏物語は、古典主義的であることが「斬新」であり「自由」になれるという意味で「脱出、反逆」であり、

またそれが西欧モダニズム文学にも通じる「普遍性」を持つという意味で、

この物語を生み出し、受け継いだ日本文明こそが「最もセンセイショナルで、最もロマンティック」である実情を、よく明らかにしているのではないでしょうか。

「日本的心情」の驚くべき効用

歴史のことば劇場68

「日本的心情」の驚くべき効用

ライシャワー自伝』(徳岡孝夫訳、1987)によれば、1962年2月、駐日大使としてロバート・ケネディ司法長官の訪日に関った際、

「ロバートに請うて15分間を二人だけで過ごし…沖縄の自治と将来の返還を早めるよう説いた。彼は熱心にメモを取り…やがて大統領の耳に達したらしい」、

同4月、ケネディ大統領は、沖縄がいずれ日本に返還される旨を言明します。

また大使を辞任して帰国した66年8月下旬、

国務省日本課長R・スナイダーより

国防省国際関係課と合同委員会をつくったと教えられた。私が提唱した沖縄返還が実を結び始めたのを知って、私は満足した」と回想しますが、これは近年の研究でも、

スナイダーを中心に国務省国防総省にわたる共同組織で沖縄返還へ向けた本格的な検討作業が始まった(河野康子)とされる指摘と一致します。

そもそもライシャワーは、1941年8月の対日石油禁輸の際も「日本を開戦に追いやるという理由で反対した」人物であり、

当時ハーバード大の新進講師でしたが、国務省に日本専門家が少ないため極東課で働くよう頼まれ、

「ほとんどの書類を見たし」、課長Ⅿ・ハミルトンから「重要な問題で意見」も求められた。

だが国務省長官特別顧問のホーンベックや上層部は、反対論などには「全く顧慮せず、一方的に禁輸を強行した…あの措置により日本はジリ貧よりは乾坤一擲の対米決戦を決意したのである」と述べています。

また当時の米国は「紛争以前の状態の回復」をしきりに日本に求めたが、

「それは帝国主義不平等条約の温存」でしかない。西欧は「日本人がみずからの意思で国を動かそうとするのを生意気と考え、自分は好きなだけ帝国主義のゲームを楽しみながら、日本人がそれに参加しようとすれば非難した。私は、そういう態度が許せなかった」

さらに排日移民法などの人種偏見の排除を訴え、1942年3月、ボストン「グローブ」紙上では日本人強制収容所についても批判します。

1945年秋、今度はヴィンセント極東部長の特別顧問として招かれ、天皇天皇制の将来に関する立案を担当します。

彼によれば、米国はポツダム宣言と日本側との応答により天皇制温存をすでに承認し、またそれが日本国民の求めるところである。

連合国の英国も立憲君主国であり、日本の「民主的政府の建設のため…天皇の地位を象徴的なものにとどめ、憲法の一部を改正しなければならない」。

また沖縄は「なるべく早期に返還するのが基本線」とも説いたといいます。

ライシャワーは小さい頃からBIJ(Bone in Japan、日本生まれ)と呼ばれ、

日本語の発音も理解し、周りから「東洋の神秘がわかる魔力の持ち主」のように扱われた。

また「女中のハルさん」から受けた「サムライ的価値観」を尊重し、

日本の家屋の「杉皮の屋根を打つあの雨音よりやさしい音を聞いたことがない」と記すような人でした。

そうした彼の心身のなかに長年育まれた「日本的な心情」が、彼の学問や人生ばかりか、

沖縄返還、戦後の「イコール・パートナーシップ」の日米関係、象徴天皇制の初期の構想にまで影響を与えたとすれば、

じつに驚くべき「心情の効用」というべきではないでしょうか。

自由世界の「普遍的な結束」とは

歴史のことば劇場67

自由世界の「普遍的な結束」

「頭を金髪に染めても、鼻を高くしても(我々アジア人は)決して西洋人になれない」

先日、中国外交のトップが人種差別的な発言をして物議を醸したそうですが、

起源的に日米同盟は1946年6月末、米国国務省政策企画室J・Ⅾ・ペイトンが講和条約に関して室長のG・ケナンへ提出した報告書に、

「安定した日本を米国に友好的な太平洋地域経済圏に統合し、有事には米国の方針に即応し信頼しうる同盟国とする」とあり(五十嵐武士)、

また47・48年頃におけるケナンと吉田茂との「認識の一致」(中西寛)によって旧敵国ではなく、潜在的同盟国への関係の構築が始まります。

50年代、W・ロストウ(後に米大統領補佐官)らが展開した「近代化論」は、マルクスのアジア停滞論などと異なり、

「伝統社会から近代」への転換を工業化や議会政治、都市化、科学思想の普及などの「諸相」から探りました。

彼らによれば近代化は国家や民族を超えた「普遍現象」であり、とくに西欧と日本には近代化を用意した「封建制の平行現象」があるとし、

ライシャワーは日本近代の起源を戦国時代に求めました。

 またライシャワーは、沖縄政策の見直しが米国で始まる契機をつくりました。

彼が駐日大使だった65年10月、ラスク国務長官に充てた書簡で、70年の安保条約の期限切れを前に、

60年安保騒動の再燃や政治的混乱を避けるため、沖縄の施政権の返還および米軍基地の諸権利の維持などを提言し、ここから政府内で議論が始まります(細谷千博)。

 沖縄返還キッシンジャーによれば「すぐれた外交の見本」であり、米国は一方的に譲歩したよう見えるが実際は何ら権利を失わなかった。

ライシャワーの後任大使のジョンソンによれば「中国や北朝鮮が侵略的行動に出なかった」のは、米軍が沖縄の基地から核兵器や通常兵器を使用する「自由な行動」が可能だったからだ。

しかしベトナム戦争の深刻化から米国の政策は東アジアで貫徹できなくなり、日米は「共通する利益」を有することを慎重に外交交渉により明らかにしなければならなくなった。

つまり、沖縄の返還によって、米国のみならず日本も「最低限の抑止力」とは何なのかを「純粋に国益の観点から決定」しなければならなくなり、米国だけが中国や北朝鮮の軍事力に対峙するのではなく、日本も「国益の観点」から抑止力たる安全保障に積極的に参加する義務が生じた。

またキッシンジャーによれば、同時期の繊維交渉から、日米は経済的競合関係にありながらも保護主義や自国優先主義を回避し、「どの政府もまだ解決できていない問題を解決」に向かわせる方向を示した。

要するに、全体主義に対抗する日米同盟と安全保障の「深化」とともに、人種や文化どころか領土問題、歴史認識、経済的競合をも超える「自由世界の普遍的な結束」がもたらされた。

しかしその反対に、全体主義の陣営ではこれら諸問題の「解決」はいぜん困難であり、

西側における「相互主義の歴史」とは違って、

不信や抗争、謀略が渦を巻き、暴力や利権、圧制などを使って強引に抑え込む事態がつづくと考えられるのではないでしょうか。