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「核」「冷戦」の時代と古典外交への回帰

歴史のことば劇場72

 ウクライナガザ地区では激しい戦闘が続いていますが、核兵器はいぜん使われていません。かつて「ソ連封じ込め」を提唱したG・ケナンは、世界大戦や総力戦は「核の出現」によって終焉すると述べました。

 ケナンによれば、南北戦争米西戦争、二度の世界大戦などの前例は、米国の兵士や「多数の国民の胸中に、戦争の通常の目的とは、敵の抵抗の能力と意思を全面的に破壊し、無条件降伏を求めるにあるとの考えを、言わず語らずに植えつけ…勝利は、敗れた敵手に対し、全面的な服従を命令する地位に自分を置くこと」となった。

 しかし、この構想は「明らかに非現実的」となった。核は「自殺的戦争か無差別破壊の戦争かの…いずれかの道を生むしかない」「このことは、はるか昔の思想に回帰することの必要性を教えている」

 総力戦は「19世紀と20世紀の原則であった。今こそ18世紀の限定戦争の思想に回帰し…戦争の目標も限定されねばならない」

 我々はタレイランの「諸国民は、平和時には互いに最大の善を…戦争には、可能な限り最小の悪をなす…」という思想に「回帰すべき」であろう。

「ギボンは18世紀の西欧文明における力の要素を例に挙げ、西欧諸国が、控え目な、決定的でない戦闘で訓練された事実を挙げた。…軍事力による強制の策略も、将来は政治的目的の追求には絶対的ではなく、ただ相対的な価値しかないことを人は知らねばならない」

 また1947年1月、次のように「仮定」した。

 米国は核兵器を「我々に対して行使されるのに対する報復として以外には、絶対に行使しないであろう」「他の国民に対して、いわれなく、侵略的に行使することを絶対に認めないであろう」

 以上「二つの判断」から想定される「平和時」の兵力編成は「それは少数の、コンパクトな、警戒部隊の維持に重点を置くもので…(米国の)海岸線からはるかに離れた限定作戦地に対し、効果的な打撃を与えることができる程度の能力…我々の武力の最大の価値は、抑制手段としてのその性格にある」

 つまり「海兵隊の強化、三軍相互間の協力の強化…機動部隊の維持」であり、もしこの「武力を保持しなければ、どこかの無法な連中に、我々がすぐには手を出せないから…大きな顔をして占領し…目的地を奪取しようなどと欲望を起させる」。

この現今にもいたる兵力編成をケナンが予見したのは、冷戦開始直後のことでした。

 彼の論理に従えば、核の出現により世界戦争は終わり、限定戦争へ回帰し、米国をはじめ自由主義陣営では「抑制手段」としての兵力編成となった。

 もはや一方的な侵略などは認めず、正当な権益は尊重するが、その発展を既存の権利と勢力均衡の枠内に抑制する。

 それはまさに古典外交の思想(高坂正堯)への回帰であるとともに、

現今のウクライナ戦争の「新冷戦」、自由主義陣営の「強い結束」、あらゆる機会をとらえての文化的・道徳的な紐帯の形成へと受け継がれているのではないでしょうか。