ソ連がいまや東欧を支配しており、ルーズベルト大統領はドイツと日本という「自然の塁壁を破壊する」ことで「米国の世紀を切り開いた」と考えているが、
実際は「スターリンのいいなり」であり、「本当にひどいことだ!」
外交官G.ケナンも、「日本が満州や朝鮮で背負った重荷や責任の苦しみに(米国は)一顧だに与えず」、戦後米国が「その痛さと苦しさをいやというほど味わっているのは……一種の天罰かもしれない」(『アメリカ外交50年』)と述べた。
シュンペーターの妻・エリザベス(彼女も経済学者)も、1941年の日ソ不可侵条約締結、45年の真珠湾攻撃を、それぞれ一年以上前に予見しています(マクロウ)。
エリザベスによれば、
米国は日本などが苦しんでいるのに自由市場を閉鎖し、自分は戦争をしたくないと強調しながら、他国には戦争を奨励している。
日本は中国に対して忌まわしい振舞いをしたが、我々も責任を共有しなければならない。なぜなら日本のいかなる侵略的な拡張も非難しながら、いかなる平和的な拡張も認めず、差別的な関税や輸入の数量制限を行い、人種偏見を背景に移民も事実上、禁止した。
しかし殆どの日本人は、国内では民主主義を、海外では侵略の終焉を望んでいる。また「中国から撤退して、真の敵のソ連に備えたいと考える」将校もいるのに、
彼らを助ける代わりに、道徳的に説教し、日本を自然な貿易から締め出し、何度も侮辱した(マクロウ)。
要するに、ケナンやシュンペーター夫妻にとって、
日本は一時的には米国の敵であっても、
長期的にはソ連共産主義の封じ込めのために必要不可欠な工業国であり、
日本の経済成長への彼らの高い評価も、そうした「長期的」な歴史認識から来るものだったと言えます。
またシュンペーターによれば、
資本主義の大量生産には、低所得層を実質的に豊かにする構造がある。
安価な衣服や靴、自動車などは、富裕層にはさほど有難みはない。むしろ女工たちの手にそれらを届け、入手の労力を減らし、仕事から解放される余暇という「新しい商品」も生みだした。
社会立法や大衆のための制度変更も、資本家が先鞭をつけた。それも強制されたというよりも、行動や思考の合理化が、社会立法の手法や意志を生んだのであり、
フェニミズムや平和主義、少子化も、本質的には資本主義の現象である。
さらに商工業ブルジョワジーには、紛争を不合理と見る傾向があり、
マルクス派がいうような「階級利益の構造上、資本主義の侵略戦争が起きる」との説明には無理がある。
資本主義とは、シュンペーターの理論によれば、終わりなき連続的で進化的な長期の過程であり、
たとえば政府当局の積極介入がなければ停滞するといったケインズ派の衰退論や短期的な観点からでは、発展の本質である「創造的破壊」という「革新」の実態を見落してしまう。
こうしたシュンペーター流の「資本主義文明」とのボトムアップ型の論理こそが、
世界における対日認識の歪みを正したのであり、しかも日本を自由と民主主義の価値観を共有する同盟国と考え直させたばかりか、
ひいては、日本の発展や繁栄とは、本来「長期的」には、どのようにして実現されるのかを、
現在の我々にも懇切に教えてくれているのではないでしょうか。