歴史のことば劇場54
などとありました。
民政局長ホイットニーは、当時、声を張り上げ、
と述べた(高柳)といいます。
じっさい憲法草案に「象徴」と記したのは、プール海軍少尉とネルソン陸軍中尉ですが、
彼らは、W.バジョット『イギリス憲政論』を参照したとされ、同書には、
「国民は党派をつくって対立しているが、君主はそれを超越している。君主は表面上、政務と無関係である……敵意をもたれたり、神聖さをけがされることがなく、神秘性を保つ……君主は、相争う党派を融合させ……教養が不足しているためにまだ象徴を必要とする者に対しては、目に見える統合の象徴となる」などとあります。
しかし、この「教養が不足」云々は、
国王の権力は民衆の愚劣さに基礎を置く(パスカル)といった西欧近代特有の思想を受けており、
「象徴」とは「精神的な要素を含んだ高い地位」「単なるお飾りではない」「天皇は、直接的には政治上の権限は持たないけれど、ある重要な役割を持った、国民に尊敬される立場にある」(鈴木昭典)などと、
またプールらが参照したのは、1867年のバジョットの原書ではなく、
1928年以後の「世界の古典」版と推測され(中村政則)、
後者には英国外交官バルフォアの「緒言」が巻頭にある。プール自身も「象徴」とは、
1931年のウェストミンスター憲章によるもの―国王は英連邦構成員の自由な結合の象徴(前文)―といい、
バルフォアは、同憲章の元となるバルフォア報告の作成の代表者でした。
そして世界の古典版のバルフォアの緒言に曰く(深瀬基寛訳)、
英国の王位には、古来の国家構造の他の大方の部分と同様に、近代的な側面が一つある。
「わが国王はその皇統と職務により、わが国民の歴史の生きた代表者」であり、バジョットのいう民主的性格を隠すもの(「仮装された共和制」)ではなく、かえってその性格を顕わにする。
「国王は一党派の指導者でもなく、一階級の代表者でもない。一国民の元首……万民の王である…種々雑多な社会、その位の上下を問わず…すべてを結ぶ運命を予定された一つの紐帯である」
このため、現憲法上の「象徴」とは、少数の選良と多数の愚者から構成される「仮装された共和制」との近代的で、19世紀的な理解に拠るのではなく、
むしろより現代的な理解、万民の王としての元首、全階層の自由や権利、社会の多様性をも保証する、
立憲主義と民主主義の歴史の「象徴」ではないだろうか。
またかつての、君主か、それ以外か、至高の主権が一体どこにあるのか、といった二項対立的な理解ではなく、じっさいはノモス(高次の法規範)に主権がある(尾高朝雄)。
つまり条文上、だれが主権者であれ、あらゆる権力は絶対でなく制約されるとする「法の支配」の原理の「象徴」と考えておくのが、妥当な理解ではないでしょうか。