doi_iku’s blog

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象徴の「現代的」な本義

歴史のことば劇場54


先日、エリザベス女王在位70周年に関する報道がありましたが、

憲法象徴天皇制が、英国の立憲君主制をふまえて成立したことはよく知られています。

GHQ民政局がマッカーサーに帝国憲法改憲案を提出した際の説明(昭和21/2/21)によれば

天皇は、朕は国家なりということではなく、国の象徴となる。…国民の間の思想、希望、理念が融合して一体化するための核、あるいは尊敬の中心として存続する」(高柳賢三ら)

などとありました

民政局長ホイットニーは、当時、声を張り上げ、

天皇にはすべての尊厳dignityと名誉honorが与えられる、しかし実際政治に介入しないのが、新憲法に関するマ元帥の考えだ

と述べた(高柳)といいます

じっさい憲法草案に「象徴」と記したのは、プール海軍少尉とネルソン陸軍中尉ですが、

彼らは、W.バジョット『イギリス憲政論』を参照したとされ、同書には、

「国民は党派をつくって対立しているが、君主はそれを超越している。君主は表面上、政務と無関係である……敵意をもたれたり、神聖さをけがされることがなく、神秘性を保つ……君主は、相争う党派を融合させ……教養が不足しているためにまだ象徴を必要とする者に対しては、目に見える統合の象徴となる」などとあります。

しかし、この「教養が不足」云々は、

国王の権力は民衆の愚劣さに基礎を置くパスカルといった西欧近代特有の思想を受けており、

マッカーサーらの示した天皇への深い敬意とは印象を異にします。プールも後年の回想で

「象徴」とは「精神的な要素を含んだ高い地位」「単なるお飾りではない」「天皇は、直接的には政治上の権限は持たないけれど、ある重要な役割を持った、国民に尊敬される立場にある」(鈴木昭典)などと、

上述のマッカーサーへの改憲の説明やホイットニーの主張にも近い証言を述べています。

またプールらが参照したのは、1867年のバジョットの原書ではなく、

1928年以後の「世界の古典」版と推測され中村政則

後者には英国外交官バルフォアの「緒言」が巻頭にある。プール自身も「象徴」とは、

1931年のウェストミンスター憲章によるもの―国王は英連邦構成員の自由な結合の象徴(前文)―といい、

バルフォアは、同憲章の元となるバルフォア報告の作成の代表者でした。

そして世界の古典版のバルフォアの緒言に曰く(深瀬基寛訳)

英国の王位には、古来の国家構造の他の大方の部分と同様に、近代的な側面が一つある。

「わが国王はその皇統と職務により、わが国民の歴史の生きた代表者」であり、バジョットのいう民主的性格を隠すもの(「仮装された共和制」)ではなく、かえってその性格を顕わにする。

「国王は一党派の指導者でもなく、一階級の代表者でもない。一国民の元首……万民の王である…種々雑多な社会、その位の上下を問わず…すべてを結ぶ運命を予定された一つの紐帯である」

このため、現憲法上の「象徴」とは、少数の選良と多数の愚者から構成される「仮装された共和制」との近代的で、19世紀的な理解に拠るのではなく、

むしろより現代的な理解、万民の王としての元首、全階層の自由や権利、社会の多様性をも保証する、

立憲主義と民主主義の歴史の「象徴」ではないだろうか。

またかつての、君主か、それ以外か、至高の主権が一体どこにあるのか、といった二項対立的な理解ではなく、じっさいはノモス(高次の法規範)に主権がある(尾高朝雄)。

つまり条文上、だれが主権者であれ、あらゆる権力は絶対でなく制約されるとする「法の支配」の原理の「象徴」と考えておくのが、妥当な理解ではないでしょうか。