doi_iku’s blog

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世論は自由の伝統に守られる

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(※前回の改稿です)                        
 昨今の国家安全維持法の成立で「香港の自由は死ぬ」そうですが、

不思議なのは、かつてアヘン戦争に敗れて植民地となった香港に、なぜ「自由」があったのでしょうか。

それは思うに、

1843年、香港の初代総督に就任したアイルランド人のハリー・ポッティンジャー卿が、香港を自由貿易の地とすると主張し、輸入品に関税をかけることを拒否したことに始まります。

また同卿は、いかなる国も(英国の敵国でも)香港の貿易から締め出さず、

このため彼は統制や徴税を望んだ英国人からは嫌われたが、国際貿易都市としての発展の種を蒔いたと言えるようです。

政策的にも、当時の香港は、

アダム・スミス的な古典的自由主義が基調にあり、英国法(コモン・ロー)と共に中国の慣習法も認められました。

その約一世紀後の1960年代には、

三ヶ所の証券取引所が許可され、英国資本の独占は許されず(Ⅿ・リドレー)、

現在では、香港は英国を上回る一人当たりの所得を誇ります。

要するに、香港は、敗戦から植民地となりながら、宗主国を超える自由と繁栄を得たけれども、

祖国の中国に復帰して、かえって今それを喪失しつつある、

という皮肉な運命を辿っているようです。

いっぽう、わが日本にも、

先の敗戦や日本国憲法の成立によって「自由」を得た、

あるいは旧套の桎梏から解放されたと見る向きもいぜん多いようです。

しかしながら、敗戦直後、日本中が虚脱状態にあったときに、

石橋湛山は『東洋経済新報』で、

この急激な国土縮小、人口過剰こそ、日本が再興できるチャンスと説いて、戦後日本の構想を鮮やかに指し示しました。

湛山による戦後初の有名な社論は

「更生日本の門出 前途は実に洋々たり」(昭和20825日号)とのタイトルですが、

「…我が日本の前途を悲観するが如きは、従来、国民に与えられた教養の不足の致すところ…一面、無理もない次第ながら、その無知甚だ憐むべし」、

「具体的に如何なる針路をとるべきかは、次号以下に…開陳しよう」とあり、

そして九月一日号の社論は

「更生日本の針路―五事御誓文と欽定憲法に帰れ」と題されています(全集13)。

湛山いわく、

「…必要なのはただわが国民がみずから心眼を閉じて、その大道の眼前に存するのを見ず、求めて荊棘の邪道に踏み込まざる用意である」

ポツダム宣言には、「日本国民を欺瞞し、世界征服の挙に出でしめたる権威と勢力とを永久に除去すべし」と記すが、

もとより「わが建国の精神は断じてかかる不逞の存在を許さず、今次の戦争がまだ世界征服の企図のごときに出たものでないことは、累次の聖詔および当局の声明等に明示されたところ…

我が皇室がかかる権威にも勢力にもあたらざることは弁明するまでもない」

また、同宣言は「国内における民主主義的傾向の復活に対するいっさいの障害を除去し、言論、信教、思想の自由を確立し、基本的人権を尊重すべし」とも記すが、

「これまた日本建国の根本主義と異なるものではない」、

かの明治天皇五箇条の御誓文

「これ実にデモクラシーの真髄を道破せられたものではないか。

また、言論、信教、思想の自由ないしいわゆる基本的人権の尊重はわが欽定憲法のとくに重きを置きて定められたるところであって、いまさら三国(※米英中)に指摘されるまでもない」

「ただ彼らは本来の日本の主義を繰り返してここに掲げたに過ぎない…日本国民は速やかに五事の御誓文と欽定憲法とに帰れ。しからば米英ソ中なにごとをなすをえん」と結びました。

この確固たる信念と見通しをもって、

湛山は国民を励まし、

侵略戦争論を否定し、皇室を擁護し、GHQと対峙し、財閥解体に反対し、

また大蔵大臣・衆議院議員の在任中には

公職追放を受けるなどの明らかに不当な政治的圧迫の数々も受けました。

けれども戦後の繁栄を誰よりも正確に見通した、この不屈のリベラリストにおける戦後の基点には、

五箇条の御誓文と欽定憲法という、

自由と民主主義の「わが建国の精神」がありました。

また、湛山によれば、

「いわゆる無条件降伏とは、かの要求条項の明文が示すごとく、軍隊に対する要求に過ぎない…今後彼我の交渉によっていかようにも定められる…」

と、日本は無条件降伏をしたのではなく、ポツダム宣言の条項に連合国も同じく拘束される、それゆえ占領政策の実施には連合国は日本側と交渉しなければならない、と説きました。

また、日本は農業国に転落するしかないなどの説は「まったく根拠なきデマ」である9/15

連合国はデモクラシー、完全雇用を理想とするから、その「案にして正しければ…必ず容れざるをえず」、工業国としての再建は「十分()調査を提出すれば、なんびとも拒否しえない」

中央政府のないドイツにおいてはどうか知らぬが、わが国においては必然当方からも政府が参加して、いかなる工業がどれほど日本の平和経済に必要なるかの査定に当るものと思われる。私はここにわが国としては、先方の故意または不注意の無理を十分防ぎうる交渉の余地を持つと考える」

と論じました。

さらには、GHQ経済科学局長クレーマー大佐に呼ばれ、財閥解体への意見を求められると、解体に反対する意見書を提出し、

「長い年月の間には、財閥にも、幾多の過失があったに違いない。しかし大局から観察し、かれらが日本の経済の発展に寄与し、また、その困難期の安定勢力たりしことは否定しがたい。今は、また、かれらに、その安定勢力たる責任を持たしむべき折である」

などと反論しました。

同時代の西欧のリベラリストG・オーウェルは、

有名な『動物農場1945の序文として書いた「出版の自由」において、

当時、ソ連共産主義に迎合し、全体主義(独裁制)と対決しようとしない思想界の姿勢を、西欧文明の根幹たる「自由の伝統からの離反」であると痛撃し、

「古来の自由の知られたる掟によって」とのミルトンの詩の一節を掲げました。

昨今の香港危機により、今後の世界は、

冷戦時代のごとく「自由の伝統」という歴史的な信念を有する陣営と、

それを信じない陣営とに二分されると思われますが、

「古来の」オーウェル「建国の」(湛山)という言葉は、知性の自由がいかに深い根をもつ伝統であり、

この歴史的信念なくして、全体主義の脅威には対抗できず、そうなれば、我々の文明の存立や繁栄は疑わしくなることを、つよく訴えているのではないでしょうか。

言論の自由が民主主義諸国においてもつねに脅威にさらされていると主張しました。
なぜなら「法律は守ってくれない」からである。
どんな法律が存在しようと、唯一かつ真の守りは世論の力である。
「もし大多数の人々が言論の自由に関心があるならば、たとえ法律がそれを禁じたとしても言論の自由は存在するだろう。もし世論が不活発ならば、たとえ守ってくれる法律が存在したとしても、都合の悪い少数派は迫害されるだろう」
では、世論は民主主義や自由をつねに守ってくれるのだろうか?
いや、健全な世論を守ってくれるのが「伝統」であり「古来の自由」なのである。
G.K.チェスタトンによれば、
民主主義と伝統が対立するなどは、
とうてい理解できない誤謬である。
「伝統とは、民主主義を時間の軸にそって押し広げたものにほかならぬではないか。それはどう見ても明らかなはずである。」
「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義である。  
単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲岸な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない」(正統とは何か)    
したがって、
世論が「生者の傲岸な寡頭政治」に陥るのを防ぎ、
「多数者の専制」(トクヴィル)との民主主義特有の暴走や弊害、
あるいは強者への阿諛追従や権力への迎合から
われわれを救いだしてくれるのが、
「死者の民主主義」であり、
「古来の自由」という伝統である
と考えてよいのではないでしょうか。

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