doi_iku’s blog

LINEブログから引っ越しました。

歴史と自由の命運

歴史のことば劇場63

インドが中国を抜いて人口世界一となり、さらなる経済成長が予想されますが、

かつて経済学者フリードマン夫妻は、19世紀の明治日本と20世紀のインドでは「自由市場」の思想を選ぶのか「計画経済」の思想を選ぶかで、明暗が分かれたとの見解を述べました。

曰く、明治の指導者は、個人的自由や政治的自由を特段重視しなかったが「自由な経済政策を採用」し、大衆参加の道を拓いて「より大きな個人的自由を実現」した。

一方、インドの指導者は「自由や民主主義を熱望」し、大衆の経済状況の改善を目指しながら「集団主義の経済政策」という制限により「人々を骨抜きにし…かつてはイギリス人によって促進されていた、インドにおける個人的自由や政治的自由を切り崩していった」

両国の相違は「異なった時代における異なった知的風潮」を忠実に反映している。

「日本人はアダム・スミスの政策を採用した…インド人はハロルド・ラスキの政策を採用したのだ」

 けれども、実際は、維新政府は、西欧流の自由思想は「神ながらの道」や「国体」に通じるとし、外国からの外発性よりも、むしろ自国の歴史的な内発性を重視しました。

 王政復古の後、商業などの利益追求への国家統制を求める民間からの建白書に対し、太政官左院(立法諮詢機関)は、自由経済が古来の「随神(カンナガラ)」の道であり、西欧の「自由(フライ)」に通じると回答した(牧原憲夫)。

松方正義は、日田県知事だった明治二年、天皇への奉呈書で「富国の根本は民心を得て物産を殖やすにあり」、外国の長所を採用し、日本の短所を補い、「国体」を明瞭にして本末を誤らず「実利をとり浮華を棄てる」ことが肝要と述べた(坂本多加雄)。

井上毅は、憲法上の所有権に関して、枢密院に「所有ノ権ハ不可侵ノ権タリ、而シテ無限ノ権ニ非サルナリ…各個人ノ所有ハ各個人ノ身体ト同シク王土王民トシテ一国ノ主権ニ対シ服従ノ義務ヲ負フ」などと説明した(石井紫郎)。

 レヴィ=ストロースによれば、自由とは長期にわたる歴史的経験の成果であり、抽象的な人権ではなく、文化遺産や慣習、信仰などからなる多元的自由が、真の普遍性を持つ。

「自由に合理的とされる基本原理を与えることは、自由の豊かな内容を排除し、自由の基盤そのものを打ち崩す。守るべき権利に非合理な部分があればこそ、より一層自由に執着するからだ…

現実の自由とは長い間の慣習、好みなど、つまりはしきたりの自由である…〈信条〉(ここでは宗教的な信条・信仰…を排除するものではない)のみが、自由を擁護する…。

自由は内側から維持されるものであり、外側から構築するつもりでいると実は内側で崩壊が進んでいる」

 たとえ憲法に規定されても社会主義全体主義の社会では自由や人権は守られないように、

自由は本来歴史的な所産であり、それが「普遍性」の基礎となる。

つまり抽象的原理ではなく「歴史的な信条」が自由の命運を決するのであり、

現在もそれこそが全体主義に対抗する西側自由世界の「普遍的で、多元的」な結束をもたらしているのではないでしょうか。