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人種偏見に負けない「人の心の勝利」


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歴史のことば劇場26                              ◎差別・偏見に抗する「人の心の勝利」      
       

以前、アジア人を「コロナ」呼ばわりする差別や偏見が話題になりましたが、

パンデミックの中心地はすでに欧米の側に移ったそうです。

情報社会では人々の考え方は急速に変化しますが、

かつて数百年にもおよぶ白人至上主義の人種偏見の長い時代があり、

そうした人種間の差別紛争のなかでも

日露戦争ほど心理的に重要なものはなかった」(P・G・ローレン)

といわれます。

1905年、バルチック艦隊が轟沈したとの報道が出るや、

英国オックスフォード大の講師A・ジンマーンは、ギリシャ史の講義は止めると教室で宣言しました。

「現代の世界で起った、ないしはこれから起こると思われる歴史的に最も重要と思われる事件について話さねばならない…

非白人が白人に勝ったのだ」()

米国の黒人新聞でも、運動家のW・デュボイスは、

白人が態度や政策を変更しなければ、黒色、褐色、黄色の人種が一斉にめざめ、

地球規模での人種戦争に挑む日が来ると予言しました。

また、「有色人種が先天的に劣っているとの誤解を打ち破ったのは日本だ。日本が有色人種を奴隷から救ってくれる…日本を指導者として従い、我々の夢を実現しなければならない」

と主張しました。

じっさい、黒人社会では、真珠湾攻撃の際も、

「迷うことなく白人との結束を固めた黒人もいるにはいたが、多くは反日感情に従うべきか否かを、ずいぶん迷ったものだった」

といわれます(R・カーニー)。

いっぽう、著名な歴史家のC・ソーンによれば、

人種という概念が「いかに実体のない概念であれ…太平洋戦争の意義についての強固な確信の基礎をなしていた…

それは単に粗雑な紋切り型の文句が公然と使われただけではない…

ロースベルト(大統領)にしても、日本人の『邪悪さ』の原因は頭蓋骨の形が白色人種のものより発達が遅れているせいだとまじめに信じていた…

彼のそうした考えは、ほかならぬスミソニアン博物館の自然人類学主事から吹きこまれた…

国務省内の報告書にも…日本人に対する強烈な批判がのせられ…極東部長から『第一級』と評された報告書には、日本人の『文化的劣等性』、『真の道徳観の欠如』、『精神的貧困』があげられていた」

ところが、

J・ダワーによれば、

人種平等と抵抗の精神を伝道した「日本の宣伝は…言葉以上に多数の非白人の世界観を変えた…

日本の緒戦の勝利は欧米人の誇りを屈辱的にまで傷つけ、白人万能の神話を永久に粉砕した」(J・ダワー)

そうした「アジア人のためのアジア」という当時の日本の主張は、

欧米の多数の識者にも似た考えを呼び起し人種に関する議論は激しさを増していきます(ローレン)

たとえば、1942年のシンガポール陥落に際して、

オクスフォード大のⅯ・バーラムは『タイムズ』紙に寄稿し、

「日本の太平洋での攻勢は強大な白人帝国主義勢力」に果敢に挑戦することで「人種関係にきわめて現実的な革命をもたらした」、

今後悲劇を避ける唯一の道は、従来の政策を大転換して、

人種間の仲間意識を強調し、平等主義を促進することであると述べた。

オランダのウィルへミナ女王も、人種差別を廃止する「強固な仲間意識」を強調し、

米国の有名なジャーナリストW・リップマンは、より強い調子で宣言した。

「西側諸国はこれまで改革を断行する意思と構想力とを欠いていた…

みずからの大義をアジアの人民の自由と安全保障と調和させ『白人の重荷』を下ろし…白人帝国主義の色合いを進んで一掃しなければならない」(W・リップマン、1942

その他にも、

「我々はウィルソン大統領がパリ講和会議で(日本が同会議で提案した)人種平等の原則を拒否して東方世界に辛い思いをさせた…罰を受けているのかもしれない」(平和機構研究委員会、1944

第二次世界大戦をふりかえって、

米国の著名な外交官G・ケナンは、

(連合国の)全面勝利は勝利者の立場からみて、一つの幻想ではなかったか…

軍事的な全面勝利が人の心に対する勝利であることは、稀れにしかない」と述べましたが、

人種偏見に関して「人の心に勝利」をもたらしたのは、

西欧の唱えた民主主義や人権やら科学によるものというより、日本の戦争行動の影響という面があり、

それも連合国に徹底的に敗北したはずの日本人による現実の行動であった

と考えた方が正確なようです。

じっさい、ケナンは

いわゆる米国流の法律道徳主義、

すなわち米国の唱える国際秩序に従わせることで、

国際平和が実現するとの考え方を、

外交の現実と特定の正義感とを明らかに混同した非現実的な思考法であると

きびしく批判しました。

その法律道徳主義の典型例として、

満州事変批判のスティムソンドクトリンや、

コーデル・ハルの日米交渉での頑迷な対日批判を例に挙げながら、

これらはあからさまな法律道徳主義であり、

とくにハルの法律道徳主義の頑迷さがなければ、

日米戦争は起こらなかった

とも考えました。

そうしたケナンによる

米国外交に対する批判的な観点からするならば、

法律道徳主義的な思考とは、

当時の米国外交や西欧の人種偏見の思考に明らかに適合的な考え方でした。

いっぽう、

日本は連合国に「軍事的」に敗北したけれども、

第二次大戦後の対ソ「封じ込め」の冷戦下においては、

共産圏との対抗上、

連合国は敗戦国を排他的に処置することはできなかった、

いや排他的に処置するどころか、

色人種の日本を含めた西側諸国の同盟構築に向けて

本格的に動き始めました。

このため、人種差別や偏見とは、

国際的な理念やら西欧人権イデオロギーや法律道徳主義の上からというよりも、

むしろ現実の国際政治の「封じ込め」や「冷戦」政策の実現化とともに、

永久に放棄されていった、

と考えられるようです。

さらに時代をさかのぼれば、

すでに18世紀後半、

『解体新書』の翻訳で有名な蘭学医・杉田玄白は、

著作において、

当時の中国医学の誤りを、西洋医学の知見から指摘するばかりでなく、

解剖学、生物学的な観点からすれば、

人間は人種や地理を超えてすべて平等だと主張しました。

また、平等であるがゆえに、

人は階級や貧富によって差別してはならず、

玄白は、切支丹容疑者が正義に反して著しく残酷に扱われる例も、日記に書き残しています。

「一人にても託されし患者あれば、我が妻子の煩ふやうに思ひ、深く慮りて親切に治を施す」

玄白によるこうした実践は、

直接には政治的意味を持つものではないが、長期的にはすべてに重要な政治的意味が秘められていた・B・ジャンセン)

といわれます。

「一滴の油これを広き池水(ちすい)の内に点ずれば散つて満池(まんち)に及ぶとや」蘭学事始

玄白らによる最初の「一滴」は、

やがて鎖国や身分制、幕藩体制を揺り動かす「一滴」となるだけでなく、

ひいては人種偏見の世界をも突き崩し

「人の心の勝利」をもたらす

伝統的な日本人の人間平等の精神としての「一滴」であった、

と考えられるのではないでしょうか。

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