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コロナによる「死」と日本人の霊魂

歴史のことば劇場27

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🔻死の尊厳と霊魂 
                                          

先日、志村けん氏が

入院先で新型コロナウィルスによる肺炎で亡くなった際、

親族の誰ひとり臨終を看取れず、

火葬なども防護服の職員が行ったとされ、

遺骨だけが渡された

との報道がありました。

やむを得ない処置とはいえ、

現代人の「死」が、かくも衛生的、

物質的な管理下に置かれるのは、

歴史学においては、

20世紀に始まるといわれます。

フランス・アナール学派として知られる

F・アリエスの研究によると、

西欧中世の人は、自分の死がよくわかっていた、

死は自分のもの、親しいものであり、

人々は自ら死を予期し、むしろ準備していたそうです。

じっさいロランの歌』の一節には

「死が自分をすっかりつかまえ、頭から心臓へと降りていくのを感じる」とあり、

セルバンテスの小説で、ドン・キホーテ

「我が妹よ、私は死が近づいているのを感じる」

と語りました。

これらは、現今において

コロナに感染したかどうかも判らずに急死するのと比べると、大きな違いがありますが、

要するに人はかつて自らの死を自覚的にとらえていた、

その意味では、死の主体は、

あくまで死にゆく個人の側にあった

それが、現代では

病院で許されるのは死なないふりをする患者であり、

自分から死を迎える死者は許されない、

ただ入院中のある一日が終わるように死んでくれる患者だけが許される。

「われわれは死なねばならないことを忘れていた」木村尚三郎

と言われるように

死の主導権は、病院のシステムやウイルスや社会衛生の側に移ってしまった、

個人の意思や死の尊厳は、自己決定とか、安楽死尊厳死とかいいながら、

じつは個人の側から引き離され、主体性や主導権を失ってしまった

アリエスは、

死が個人の手から社会や病院に奪われたことを痛烈に批判しますが、

アリエスの奥さんが不治の病にかかったとき、

彼は病院には入れず、自分で看護した。

奥さんがなくなると、

そのあとを追うように、彼も亡くなった(木村)。

一般的に言って、

個人の自我や権利とは、

古い社会や家などの共同体に反逆し、

近代に生まれたとされますが、

しかし、「死」においてだけは、

個人の意思や尊厳は、かえって個人の側から引き離され、

主体性や主導権を喪失しているというのが、

現代社会の特徴といえるようです。

また、近年では、ピンピンころり、

家族や周囲に迷惑をかけず死ぬのが理想ともされますが、

それもアリエスの見方からすれば、

個人の死の喪失の一種であり、

またじっさい、

世はとかく見込み違いばかり、

「命長ければ辱(はじ)多し」吉田兼好と、大体は生き恥をさらしてしまうようです。

『病床六尺』などで知られる俳人正岡子規であっても、

結核とカリエスに苦しみ、死は「何よりも望むところ」ではあるが

「死ぬることも出来ねば殺して呉れるものもない」、

また死に損なえば今以上の苦しみも加わる、それが恐ろしいと言って、

小刀や千枚通しを眺めて煩悶し、躊躇したといいます(新村拓)

けれども、G・K・チェスタトンによれば、

自殺者とは、自分以外の何物にも関心を抱かず、これ以上もう何も見たくないと思う人のことである、

その反対に、

殉教者は、どれほど世を捨てようと究極において生とのきずなを認めていた。

彼の魂は、自分の外部に向けられ、

彼が死ぬのは何物かを生かすためであり、

むしろ自分以外の何物かをあまりに強く思う結果、自己の生命のことなど忘れた人のことだ

と述べました。

また、柳田國男は、

日本人の歴史的な死生観について、

死者は「山のふもと」に葬られ、魂は山の高所にとどまり、

ずっと子孫を見守っていると述べました。

「魂になってもなお生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人であるゆえか、私には至極楽しく感じられる…

できるものならば、いつまでもこの国にいたい…

一つの文化のもう少し美しく開展し、

一つの学問のもう少し世の中に寄与するようになることを、どこかのささやかな丘の上からでも見守っていたい」と述べました。

そうした意味では、

日本の死者は、

おそらく「自分以外の何物にも関心を抱かない」のではなく、

死は「何物かを生かすため」であり、

魂は「その外部」にむかい、

むしろ自分以外をあまりに強く思う結果、

死の苦悶や悲哀をも忘れ、

我々をずっと見守っている、

といえるようです。

つまり、霊魂は

病院から火葬場への直行では潰えず、

死者とのきずなの感覚とともに、

死の尊厳や個人の意思、主体性は守られ、

永遠に受け継がれていく

と想像されるのではないか。

また、霊魂に見守れている感覚が、個人の死の尊厳や主体性を今なお守ってきた。

死者の意思を受けつぐことで、

子孫は安心立命を得てきた。

この死者に見守られる聖なる次元の感覚、先祖とのきずなの感覚とともに

日本社会は存続してきた。

死者との聖なる感覚により、日常の世俗的な生活を正し、自身を引き上げ、

安心させ、安定させ、日々を高めてきたというのが、

日本人の伝統的な死生観の真価

と考えられるのではないでしょうか。

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