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「マサシキ御ユヅリ」の男系継承

歴史のことば劇場28

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🔻「古来の常識」にもとづく男系継承    


ネット上の女性週刊誌の記事を見ていると、

世論調査では、皇位の女系継承への賛成が合計85%にも達しているのに、

いぜん男系継承にこだわり、

皇室典範改正の議論を進めない安倍政権は、

皇室を「存続の危機」に追い込んでいる

などと論じていました。

女性誌といえば、かつては

皇太子妃時代の雅子様はもちろん、

愛子様に対しても、執拗なバッシングや人格批判を繰り返しましたが、

その全てを忘れたかのように

今度は男女平等や女系継承をかかげ、

皇位の安定継承」を唱えています。

 「近代人の理性の外見の下には、野蛮で残忍な悪魔がうごめいている」

と評したのは、

18世紀英国のE・バークでしたが、

バークによれば、いかなる知的な人物でも、

伝統的な道徳や社会の仕組みのすべてを理解することは望めない、

それゆえ、本来、

「人間が法を作るのではない」、

それは人為を超えた「古来の常識」のなせるわざである、

といいました

また、古来の常識とは、

すべてに判断がなされているということであり、

原則という不変の形式のうちに表現された正しい理性のことである。

われわれが何かを選択するするとき、先祖たちの行いを「正しい基準」として拠り所としてきたのは、

このためである。

人間は、自然と歴史を通じて原則や基準にいたるが、

歴史とは、神の至高の企図を徐々に明らかにするものであり、

このため「法」が現れるような良い変化は、

人間の意識的な努力からは

独立したプロセスにおいて生じる

と考えました(R・カーク)

いっぽう、わが国の歴史書でも、

愚管抄は、外国では「徳」があれば王になれるが、

我国では御血筋でないと天皇にはなれない、

その道理は神代から定まっていると記しました。

神皇正統記は、皇統の正統(しょうとう)とは、父子相承のことであり、

それは先帝の発意と祖神の本意にかなう「マサシキユヅリ」の譲位によって保たれる

と論じました(岩佐正)。

こうした「マサシキ御ユヅリ」の譲位による男系継承とは、

律令法にもそうした規定は見えないように、

「神代以来の道理」という伝統や慣習、

すなわち、人為の実定法を超えた、いわば高次の「法」の理念から守られていた

といえます。

また、平安期の儀式書にも、

父子相承ではない譲位の場合、

「上表」といって、皇位継承者が一旦辞譲する姿勢をみせる儀礼が存在しました。

要するに、歴代の譲位は、

父子相承をあくまで原則として、

それ以外の兄弟相承などの男系継承をも柔軟に認めるというのが、

譲位の儀礼上の本来のあり方であり、

それがまた、律令法を超えた

実際の皇統のあり方でもありました。

これら実定法には規定されない

「マサシキ御ユヅリ」の譲位による父子相承を中心にして、

男系継承の皇統は受け継がれてきたわけですが、

じっさい、

平成から令和への御代替りも、

憲法皇室典範の実定法にはない

天皇の発意に基づく「マサシキ御ユヅリ」が、その実態であったことは

いうまでもありません。

たしかに、今回、

天皇の意思による「譲位」は、

国民主権の民主憲法に反するなどとして「退位」に変更されました。

けれども、主権の論理とは、

実質的には「絶対主義の概念」と一体であり、

主権論ほど法律学者の思考を混乱させてきた概念はない、

それは絶対主義に通じる「退歩的で、野蛮的な社会の手段にすぎない」(J・マリタン)

といわれます。

また、

「国家主権者の命令とか国家主権の支持というような観念を基礎にして法律概念を決めようとする考えはすべて間違っている…」(末弘厳太郎)

「国家はその独自の立場から、或る場合にはあくまでも国家法をもって社会に臨み、或る場合には社会法たる慣習法に優先的地位を譲る……

本質上、社会の法律たるものは国家が認めようが認めまいがそれ自体社会の法律たることに変わりのあるべきはずがない。」(同)

要するに、法とは、本来は

国家がつくるものではないし、

君主や主権者がつくるものでもない。

むしろ、君主であれ、国民であれ、

あるいは国家であれ、

誰が支配者であり、誰が主権者であろうとも、

その権力を抑制するのが「法の支配」の原則であり、

立憲主義の本来の立場である。

そうした意味では、

絶対主義的な「主権」を抑制する

古来のノモス(法の理念)こそ、

真の主権者というべきであり、

国民主権もまた、

そのノモスの理念を承認する点では、何ら変わりはありません(尾高朝雄)

したがって、

千数百年にわたり出来あがった「ノモスの理念」という歴史的な総意に、

「主権」や「理性」を対置しようとするのは、

主権を至上無類とする、絶対主義の支持者の迷妄にすぎない

といえるようです。

それよりも

むしろ「法」の源泉であり、

原因であるところの、

実定法を超える至高の手続き(バーク)に従って、

不変の形式である「マサシキ御ユヅリ」の男系継承を引きつぐのが、

いわゆる法の支配や立憲主義という

「古来の常識」の立場である

と考えて間違いないのではないでしょうか。

「この世に生を借りた存在でしかない者が、祖先から受けとったものや子孫に支払うべきものに気をとめず、すべてを所有するかのようにふるまってはならない…
自分たちが祖先の諸制度をほとんど尊重しなかったように、後継者に自ら生み出した機構を尊重する必要がないと教えることになってしまう…
(国家とは)生者たちの協働事業(パートナーシップ)であるだけでなく、生者たちと死者たち、これから生まれ来る者たちの間の協働事業でもあるのだ」(E・バーク『フランス革命省察』)

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