ビールと日本人
▼醸造は日本の長技
ビールは、五千年の歴史を持つといわれますが、
日本に入って来た記録は、意外にも遅く、
江戸時代の十七世紀まで時期が下るようです。
初めて日本人が飲んだ記録とされる建部清庵・杉田玄白『和蘭(オランダ)医事問答』(一七九五)には、
「殊外(ことのほか)悪敷(あしき)物にて何のあじはひも無御座(ござなく)候」とあります。
万延元年(一八六〇)の最初の遣米使節に加わった仙台藩士玉虫左太夫は、
ポーハタン号における西洋式の宴会に出席しますが、
西洋の音楽は「極メテ野鄙(やひ)、聞クニ足ラズ」、
料理は「臭気鼻ヲ突ク…口二合(あわ)ズ」と、
音楽も、料理も、大いに不満であった。
けれども、
「酒一壺アリ、ビールト云フ、一喫ス、苦味ナレドモ口ヲ湿ス二足ル」
と記しています。
音楽や料理と違って、ビールには、いかにも感じ入ったような書きぶりが見られます。
また、この数年後、
福沢諭吉は、
「麦酒…胸膈(きょうかく)ヲ開ク為二妙アリ」などと述べとおり、
人々と陽気に打ち解けることのできる、ビールの交際上の功徳も説いています(キリンビール編『ビールと日本人』)。
そもそも「飲料」は、
社会が豊かになれば
「益々精美ヲ好ム」ものである。
つまり、文明が進めば、
品質の良いものが飲まれるようになる。
「故ニ飲料ノ消費高ニテ、国ノ開化ヲ証スル説モアル」くらいである。
しかし、同じ醸造酒であるという点では、
「日本酒モ亦ビールノ一種」ではないか。
しかも、
「日本ノ酒ハ…醸法頗ル高尚ニ属ス。只(ただ)未タ欧洲人ノ嗜好ニ生セサルノミ」。
西欧人が飲まないのは、
ただ機会がなかったからにすぎず、
文明が進めば、
人間は必ず異なる嗜好を求めるから、日本の酒は
「必ス一箇ノ輸出物」になるに違いない。
「醸造術ハ、日本ノ長技ニ属ス…尤(もっとも)国産倍増ノ眼目ヲ得タルモノト謂(い)フへシ」(回覧実記)。
明治三年、米国人コプランドが、
横浜にビール会社を設立したのが、現在のキリンビールの前身であり、
同九年、サッポロビールの前身の札幌麦酒製造所が開業。
いわゆるビールの会社乱立の時代に入り、同二・三十年代には、
百を超える銘柄が売られています。
同三二年、東京新橋にビヤホール「恵比寿ビール」が開店すると
大評判をとりました。
当時、中央新聞は、
「全く四民平等とも言ふべき新天地…
貴賤高下の隔ては更に無い。車夫と紳士と相対し、職工と紳商と相ならび、フロックコートと兵服と相接して、共に泡立つビールを口にし、やがて飲み去って微笑する処、正にこれ一幅の好画」
と評しています(前掲ビールと日本人)。
ビールが、近代日本の産業化や平等化の象徴的な存在であったことが、よくうかがえますが、
そうした近代化や平等化の
まさに象徴ともいえる軍隊や軍隊の酒保(しゅほ)を通しても、
ビールは広がりをみせていきます。
冒頭、乃木の短い挨拶が終ると、
いきなり「ビール注(つ)げ!」
の号令のもと、ジョッキに並々と注がれ、
「ビール飲め!」
の号令によって、全ての将校による一気飲みが始まります。
それを飲み干すと、またすぐに
「ビール注げ!」
の乃木の号令の声が響き渡り、
「ビール飲め!」。
これが、何回も繰り返され、
参謀長以下、続々と落伍者が出るなか、
十何回目の最後まで残ったのは、
結局、乃木と樺山だけ。
樺山はニコニコしながら、
「みんな、弱い喃(のう)…」
と、乃木と顔見合せながら、
笑ったといいます(同)。
▼逆転、多角化、世界的ビッグプレイヤーへ
昭和十四年、ビールの消費量は年三十万㎘で、戦前の最高値となりますが、
一人当りでは、現在のワイン消費量にも及ばす、
いまだ都会中心のハイカラな酒でした。
それが、戦中期の軍需の高まりや配給制度の本格化とともに、
ビールは「産業戦士」の国民飲料となり(前掲稲垣)、
戦後の昭和三十年代には清酒を抜いて、
同五十年、戦前の消費量の十五倍以上の五百万㎘にまで達します。
この間、キリンは昭和二九年にシェア三七%で初めて首位に立ち、
五十年代にはシェア六割を超えますが、平成十三年に、
アサヒに首位を奪われます。
昭和四十年代は「ラガー」の時代、
昭和五十年代は「生」の時代、
六十年代は「ドライ」の時代、
次の十年は「発泡酒」(平成七年~)、
つづいて「第三のビール」(十五年~)、といったように、
ビールの流れは
大体十年で変わっていきますが、
もっとも鮮烈な印象を残したのは、
やはりアサヒ・スーパードライの出現でしょう。
昭和六一年、
経営難であったアサヒビールの社長になった樋口廣太郎は、
じつは「再建」ではなくて「幕引き」のために、住友銀行から送り込まれたといいます。
ところが、アサヒに来てみると、
「住銀以上に優秀な人材が沢山いた」。
樋口によれば、考えてみれば、
敗戦後、過度集中排除法によって、ビール産業は、アサヒとサッポロに解体されたように、
GHQから見ても、日本のビール産業は、戦前の製鉄や重工業と同様に「日本の最先端産業であり…
優秀な奴が集まるのは当たり前」である。
しかも当時、アサヒには
「少なくとも幹部には他人の悪口を言う人間はいなかった。人間的には良い奴ばかり」であった(永井隆『ビール15年戦争』)。
本当は、樋口は、住銀の頭取になりたかった。
しかし、アサヒに来てみて、
樋口は「前のことは忘れて」「一つの事に生きよう」と決意し、
幕引きではなく「再建」にふみ切った。
数年後、業界の様相が一変したことは、よく知られています。
それが平成二一年にもなると、
キリンとサントリーという、
当時、すでにアサヒの後塵を拝していたものの、
いぜん大企業である二社の巨大合併が、
新聞で大々的に報道されて世間を驚かせます。
しかし、その七年前の平成十四年、
サントリー四代目社長の佐治信忠は、
少子高齢化の時代環境から、四社体制はいずれ崩れるのは明らかである、
そうなれば、「サントリーは五年以内にМ&Aを行う可能性がある。その対象はキリン」である、
と予見していた(同)。
この巨大合併の話は、結局、決裂しますが、
平成二六年、佐治は、
バーボンで知られる米国ビーム社を百六十億㌦(約一兆六千四百億円)で買収。
当時、佐治は
「ウィスキーは日本の酒であるとチーフブレンダー(サントリーのチーフブレンダー・輿水精一)も言っている」、
「世界に打って出る最後で唯一のチャンス」であると位置づけていました。
さらに、サントリーHⅮは、
キリンHⅮを抜いてしまうどころか、
東京五輪が開催される2020年の末には、
グループ売上高「四兆円」をめざすとして、
飲料業としては、
コカ・コーラやビール最大手のAB(アンハイザー・ブッシュ)インべブとも肩を並べるような、
世界一の規模となる壮大な計画をぶち上げています(永井『サントリー対キリン』)。
驚くような技術革新、業界の勢力図の逆転、再編、再逆転、
世界市場における「超ビッグプレイヤー」へ―
IT業界を除けば、
これほどダイナミックな展開を見せる、伝統的な産業は、
ビール業界の他には、
まず見当らないといえます。
そもそも、ビール産業は、
近代の産業化・平等化の申し子として出発し、
やや高級で、都会的な飲料でした。
それが、戦時期の軍需の高まりとともに「国民飲料」となり、
戦後の高度成長から、
サラリーマンや労働者たちの代表的な酒となった。
その後、バブル期に向かう「豊かな」時代においては、
倒産の危機もあった状況のなか、
画期的な技術革新が現れた。
また、当時の個性化、多角化の社会状況にも巧みに対応し、
さらにバブル崩壊後、
しだいに明確になってくる、少子高齢化、減産、そしてⅯ&A、世界的な再編といった、
いわゆるグローバル化時代の荒波をも乗り越えて、
いまや世界市場の「超ビッグプレイヤー」として君臨する巨大産業に成長した❗
まさに、敗れざる企業精神、
底知れぬバイタリティの発揮、
卓越した先見性の連続…。
日本のビール産業には、
「日本の長技」としての伝統的な醸造業が、巨大な現代企業へと成長する姿、
それも、戦後日本の大企業のあり方を大きく超えて、
グローバルで、世界的な
超ビッグプレイヤ―として成長し続けていく
「偉容の歴史」の雄姿を見ることができる
のではないでしょうか。
http://www.seisaku-center.net/monthly?page=1