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人口変動と社会保障💹📊📈

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▼高齢社会が普通の長寿国


人間の歴史は、人口増加の歴史ともいわれますが、

実際に増加率が加速するのは、

西欧では十九世紀初めから、

日本では幕末・明治初期の十九世紀後半になって始まります。

人口成長とは、

一般的には、高い出生率と高い死亡率による

「多産多死」の伝統社会から、

死亡率の低下による

「少産少死」あるいは「多産少死」という

近代社会への転換によって、

人口増加が起こると説明されます。

けれども、

日本において乳児死亡率が低下するのは、

大正期の一九二〇年代になってからであり、

十五歳時の平均余命(その後何年生きられるか)を見ても、

大正期まで改善が見られません。

また、出生率は、

西欧近代の合計特殊出生率(一人の女性が生む平均値)が、

だいたい八~九人であるのに比べて、

日本では、江戸期でも

出生率は四~六人ほどでしかなく(友部謙一ら『近代移行期の人口と歴史』)、

また大正には早くも低下していき、

第二次大戦の敗戦をへて急減し、

一九七五年には早くも二人を下回って、

人口減速の将来へと向かっていきます。

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こうした背景には、

敗戦後の生活困窮のほか、

昭和二三年の産児制限を伴う優生保護法による妊娠中絶の合法化があるといわれ、

また、高度経済成長も出生力の向上には貢献しなかったことも

大きく影響しています。

さらに進学率の上昇ともあいまって、

高賃金経済、晩婚化・非婚化が生じ、

予想以上の早さで少子高齢社会の到来をもたらすことになった

と考えられます(斎藤修ら『歴史人口学のフロンティア』)。

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しかし、もともと日本国は、

六十歳以上まで生きることが普通に見られる長寿社会でした。

江戸後期の飛騨国では、

二一歳以上の死亡年齢は、男女とも平均六十歳以上、

五一歳以上の享年は、じつに七十歳を超えています(須田圭三『飛騨O寺院過去帳の研究』)。

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また、六十歳以上人口が十五~二十%に達する村や町も

十八世紀に現れており(柳谷慶子『江戸時代の老いと看取り』)、

その一方で、子供数は減少し、

一家の人数は、武家・百姓とも、

隠居制の影響もあって、

平均四、五人、子供の数は二、三人、

養子相続は三割を超えており、

女子相続も決して少なくなかった(倉地克直『日本の歴史11』)。

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つまり、少子高齢化や人口減、

核家族、相続の多様化というのは、

現代になって始めて現れた現象ではなかった。

むしろ、歴史的には、

長い経験を有していると現在の研究者は考えており、このため、

当時の「家」や「村」の存続にかけた庶民の必死の努力や功績が、

いま学問的に見直されているともいえます。


▼滅亡から救った民間社会の決意


十八世紀後半、仙台藩領の吉岡宿では、

重い負担の伝馬役(てんまやく)に困窮し、

穀田屋らは仲間を説得して千両(いまの三億円)に上る基金を集め、

藩の蔵元に預けて年百両の利子を上げ、

それを全二百戸に配分して、

弱い家も潰されない仕組みを作りました。

つまり、藩に献金する形で

福祉基金をつくり、

弱者を救済したのであり、

穀田屋ら九人は後に藩から表彰されますが、

その金一封すら人々に配っています(磯田道史『無私の日本人』)。

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その他、武蔵国田無村の庄屋半兵衛も、

私財二四三両を投じて同様な養老救貧制度を創始しており(一八二九年)、

「その身一代のうちに、村内に決して容易になくならない徳行をせよ」

「人に施して報いを受けようとするな」

と子孫に向けて遺訓しています(久留島浩ら『田無市史』三)。

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こうした、民衆から尊敬された彼ら「名望家」は、

明治維新後の近代化や地方自治を支える「政治的中間層」へと成長して引き継がれていきます。

そもそも、日本における民間主体の貧困救済は、

有名な生類憐みの令(十七世紀末)に関連して、

捨子防止や養育制度が都市の町の負担となったのに始まります。

各藩では、間引き禁止や赤子(あかご)養育(よういく)仕法(しほう)(養育料支給等)を出していますが、

当時は、産児制限等による家族数の適正化は、生活上、不可欠であり、

間引き禁止や赤子養育仕法などの効果は、限定的だったと考えられています。

その一方で、老人の数の増加は、

家の介護の負担増とともに、

子供が適正数を割るということ、

つまり、家や村の存続自体を脅かしていき、その結果として、

むしろ凶作下でも子を増やす「意思」を次第に生みだしていった

といわれます(松本純子「近世町方の『老い』と『縁』」『歴史』94)。

いっぽう、藩の公共的な救済策は、

十八世紀後半には全体的には後退していくのに対して、

人口減少は、その反対に、十九世紀初めには底を打ち、

上昇へと転化していきます(前掲倉地)。

明治以降の近代日本の社会保障は、

「救貧」から「社会保険」へと進んでいきますが、

維新後に知られる有名な事例としては、

明治天皇は、明治二年に「窮民救恤(きゅうじゅつ)の詔(みことのり)」を出され、

宮廷経費七万五千石のうち、じつに一万二千石を充てています(今泉宜子『明治日本のナイチンゲールたち』)。

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近代当初の社会福祉は、

皇室下賜や個人篤志家に支えられた一面があり、

大正期における妊産婦の保護施設を見ても、

私設が圧倒的であり、乳児死亡率は「母乳回帰」の定着、

あるいは民間社会事業による所得移転によって低下していった

のが実情と考えられています(伊藤「戦前期日本における乳児死亡問題とその対策」『社会経済史学』63-6)。

また、日本の社会保険は、

日清戦後の企業共済組合を基盤に、労使折半の健康保険が大正期に開始され、

これら民間主体による健康保険制度は、昭和戦中期の政府による

国民皆保険」に先行していました。

それが、戦中期に国民皆保険制度がつくられることで、

会社か、市町村かで加入できる、

日本独特の社会保険制度となった。

年金制度も、男子労働者だけでなく、

女子労働者、事務職員へと次第に対象を拡大していきます(橋本寿朗『現代日本経済史』)。

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いっぽう、現代社会における高齢者の長寿化、

すなわち六五歳以上の平均余命が急速に伸びていくのは、

じつは一九六〇年代から七〇年代の高度経済成長の後のことでした。このため、人口学の分野では、

人口減少や少子化よりも、

ごく最近の長寿高齢化の急激なスピード増加こそが、

最も「革命的」な現象であると考えられています。

またそれは、公共財政的には大きな負担を生み、

現在の日本の社会保障を含む国民負担率は、国民所得の約四割、

社会保障給付費は、年間で三、四兆円の割合で増えています。

このまま推移すれば、将来、

平成三七(2025)年で約五割となり、

給料や所得の半分が徴収され、平成四七(2035)年で約六割、

平成六二(2050)年に七割を超えてしまいます。

こうした、とめどなき社会保障費の膨張を、

現在の研究者・鈴木亘氏は『社会保障亡国論』として警告していますが、

すでに昭和三十年代には、

経済学者山本勝市は、こうした急激な膨張の事態を予見して、

福祉国家亡国論』として警告していました。

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西ドイツの経済学者レプケは、すでに1970年代から、

福祉国家政策に見られるような国家による過重負担を進める動きは、

「国家そのものが権力闘争によってむしばまれ、一般公共性のために役立つ機関として権威を失う」

「統治されるものが、心から自分たちの国家だと感じ得るような存在でなくなる」(『ヒューマニズムの経済学』)と述べて、

「魂なき機械化された社会」(エアハルト)の将来が到来する危険性を警告しました。

けれども、

わが国の江戸時代を振り返るならば、吉岡宿を救った穀田屋十三郎は、

「たとい、おのれは身売りになりても、かまいなく」といい、

実家の浅野屋は、家族の衣服も売り、老母は

「我が家が悼む(滅ぶ)のは覚悟」して二千貫文(現在の一億円超)を、村救済の基金のために個人で拠出しました。

穀田屋は、

「一粒の花の種は、地中に朽(くち)ず、終(つい)に千林(せんりん)の梢に登る」

と述べました(磯田『日本人の叡智』)。

すなわち、たった一人の無私の犠牲、たった一人の名望家や一戸の家の献身から、

江戸時代の村の救済は、始まっていたともいえます。

こうした、たった一人の思いに突き動かされた、

民間社会の決意の歴史が、

現今の日本においても完全に忘れ去られなければ、

またふたたび「一粒の種」が

澎湃として現れ、少子高齢化社会の苦境を救うような時代が、

もう一度、日本に訪れる日が来るのかもしれません。


◆付論:貧困の解消と「指数関数的」発展


いまや日本の人口減少が嘆かれない日はなく、

出生率の低迷が報道などで連日話題になります。

しかしながら、

出生率は世界中で減少しています。

一九六〇年より出生率が上がった国は皆無であり、

発展途上国では半分になった。

バングラディシュで2.7、

国連の推計でも世界人口は

二〇七五年の九二億をピークに減少が始まるといいます(Ⅿ・リドレー『繁栄』)。

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十八世紀末、マルサスは、

食糧生産は線形的にしか増えないのに、人口は指数関数的に急増することに愕然とした。

指数関数が1を大きく下回った場合、0.001が0.002、0.004、0.008と増加しても

曲線が1を超えないから

人間の目には水平な線にしか見えない。

しかしこれを繰り返せば、

ある時点で曲線が生じて急上昇し100を超える…

それが、出生率急減の現在では、

話が逆転します。

ここ三十年、途上国の貧困層の消費は、

世界の二倍以上の割合で増え、

世界の絶対的貧困は18%未満まで下がった。

この減少率が続けば、

二〇三五年にはゼロになる。

それどころか、マルサスの予言とは正反対に、

ムーアの法則(二年毎(ごと)に情報処理能力が倍増)に従って

AIなどテクノロジーによって、

人口増加ではなく、世界の豊かさが

指数関数的に増大する

とも考えられる(P・H・ディアマンディスら『楽観主義者の未来予測』)。

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考えてみれば、

日本の産業革命期(明治中後期)の工業総生産額の95%以上は、

大工場ではなく家内工業や在来産業によるもので(中村隆英)、

戦後のトヨタ、日立、松下、本田も、大銀行や財閥とは縁の遠い新規参入者でした。     

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近年、米国カリフォルニアでも、
成功企業の三分の一はアジア系の起業であり、
いわゆる発展途上国的世界が、
既存の事業を脅(おびや)かす技術開発を生み出すのに適している
と言われます(楽観主義―)。
まさに
下からの近代化、
草の根の多様性から、
指数関数的な高度成長はもたらされるようですが、
文久元年(一八六一)、
孝明天皇は、金五十枚を細民救済にあてようとし、
前年の和宮様御降嫁の際も
「真実之處賑恤(しんじゅつ)之意」を幕府に求めました(孝明天皇紀)。
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また、明治天皇は、
五箇条御誓文を伝える御宸翰で、
「天下億兆一人も其の處を得ざる時は皆/朕が罪なれば…」
との決意を宣明しており、
窮民救恤の詔(明治二)では、
宮廷費七万五千石のうち、じつに一万二千石を充てた。

当時の新聞は、
御宸翰は掲載しても、御誓文を伝えるものは殆ど無く(尾佐竹猛)、
細民救済、「天下億兆…其の處を得」ることが、天皇の御意向とイメージされた。

「(明治)日本に比較したら、どんな西欧の進歩も、まどろっこしく、試験的だ」(H・G・ウェルズ)。

天皇は、その颱風の目であった(木村毅)。

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ハイエクによれば、

「下層階級の地位の向上がいったん加速し始めると、富裕層への迎合は大きな利益の源泉とはならず、大衆の要求に向けられた努力に地位を譲る。

最初は経済的格差をおのずと深刻化させる力も…いずれその格差を消滅させる傾向にある」といいます。

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未来の根は、過去にある。

ハイエクのいうこの「下層向上の傾向」とは、

日本では、多分に前述した

ボトムアップ、江戸期の名望家や

幕末・明治維新前後の皇室の言動と共に高まり、

後の「指数関数的」発展の起点となったのではないか。

それは当初は

0.0001や0.0002の僅かな蓄積であったかもしれないが、

しかしやがて1を超えると、

急速に乗数的な経済発展を見せていき、

世界でも類例のない

平等的な社会へと跳躍していった

と考えてよいのではないでしょうか。


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