doi_iku’s blog

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湯と温泉の日本史♨🛀(上)

ローマの「テルマエ」とは異なる、日本の「神の湯」

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温泉比較文化漫画」の時代


平成26年、邦画の『テルマエ・ロマエ阿部寛上戸彩主演)が大ヒットし、

原作の漫画ヤマザキマリ著)

累計500万部を超えるベストセラーとなりました。

作者のヤマザキ氏によれば

「温泉比較文化漫画がコンセプト」というこの『テルマエ・ロマエ』は、

古代ローマ帝国の浴場(テルマエ)技師ルシウスが、

ひょんなことから現代日本の銭湯や温泉施設へとタイムスリップ、

そこで腰を抜かさんばかりに本の入浴文化のレベルの高さや奥深さに

驚かされるという話です。

誇り高きローマ人・

ルシウスのプライドをズタズタに傷つけたのは、

日本では笑えるほどありきたりで、安っぽいものばかりでした。

例えば、銭湯の真っ黄色のプラスチック製の桶。

「何という美しい黄色…」。

1970年代の映画スターウォーズのポスターを見れば、

「この構図の完璧さは何だ!!」。

フルーツ牛乳を飲めば、

「美味いっ! この世のものなのか」。

シャンプーハット、シャワーは、

じつに「便利だ」。

地方にはなんと「サル専用の温泉」まである……

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 何の変哲もない、現代日本人にはありふれたものが、

ルシウスには大いなる驚異の対象であり、

「この表情に何の威厳もない平たい顔族(=日本人)には、底知れぬ知恵と技術が…」

とまで言われると、

日本人なら誰だって

自国文化の中に秘められた実力に気づかされると思います。

本書はすでに数々の賞を受賞しており、

傑作との呼び声も高いのですが、

ただ一点、気になるのは、

日本の歴史上の温泉や風呂については、

なぜか殆ど触れられていないことです。

 

▼西欧の「不潔と悪臭」、日本の「神事と民衆の賑わい」


たしかに、2世紀頃のローマ帝国には、公営の大浴場が11カ所、

私営の小規模の浴場になると

約一千ヵ所もあったとされ、

貴族や市民だけでなく奴隷でも安い料金で入浴できたといわれます。

それに比べて、日本の銭湯は、

鎌倉時代後期に始まるとされ、

一般的に広まるのは江戸時代の十七世紀以後まで時期が下るようです武田勝蔵『風呂と湯の話』)

けれども、西欧では、

十六世紀フランスで梅毒が流行したことから、

公衆浴場は売春や病気の温床であるとして閉鎖されていきます。

カトリック教会からも、古代ローマ風の公衆浴場の快楽や退廃としてきびしく非難し続け、

また疫病の原因としても批判されています(『歴史学事典』2)


さらに、裸体をさらすことを嫌う、中世的な西欧社会の風習も影響して、

かのフランスの「太陽王ルイ14世でも、ほとんど入浴せず、

病気になっても、侍従医の言によれば、

「生涯二度めにして最期となる入浴を処方するが、これも実現できずに終わっている」、

「王や王妃はいちばん貧しい小作農と同じくらいめったに風呂にはいらなかった」(K・アシェンバーグ『図説不潔の歴史』)といわれます。

当時のフランスでは、

人生で「産湯(うぶゆ)と葬式でしか湯に浸からない」といった

冗談のような生活が、

ごく普通であったようです。

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これに対し、日本の浴場の最古の記録は、

いわゆる神話伝承の時代にまでさかのぼり、

奈良時代出雲国風土記(ふどき)(733)には、

現在の玉造(たまつくり)温泉(島根県八束郡玉湯町)の様子が描かれています。

当地の湯は、

出雲国造(くにのみやつこ)(後の国司)が、

神寿詞(かむよごと)(新年の賀詞)を申し上げるため、

廷に参上する際に、禊(みそぎ)を行う場である

「神の湯」と称されていた。

出雲国風土記(新編日本古典文学全集本の現代語訳)によれば、

「……温泉は川のほとり(玉湯川)に湧きだし、海と陸との境にある。

男も女も、老いも若きも、子供も、つらなって毎日集まり、そこでは市(いち)(物売りの集まる場)が立つほどである。

また彼らは歌い乱れて酒宴をひらく。

その出湯(いでゆ)に一度入ると、たちまち端正な美しい体になり、

二度入ればすべての病がすっかり治ってしまう。

大昔から今にいたるまで、効き目がなかったことはない。

だから、人々はこの湯を「神の湯」と呼んでいる……」

とあるように、

国造の神事とともに、

民衆が酒や歌、踊りを毎日楽しみ、

商業も栄え、治療や美容の効能が高かったと伝えています。

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もし仮に、ルシウスが古代の出雲にタイムスリップしたとしても、

やはり温泉や酒を一緒に楽しみ、

ひょっとすると、

出雲の祭事とか出雲大社の巨大な社殿の荘厳さを見て、ますます

「私が何をしても超えられない恐るべき種族…」との感慨を強くした(?)かもしれません。

このように、

日本の温泉文化には、

古来の神話の時代から今日まで、

本質的にそれほど変わっていないという、

驚くべき継続性や先進性があるといえます。

また、一般民衆が酒や歌、踊りを毎日楽しみ、

商業も栄え、健康や治療や美容の効能が高かった

などというのは、

もちろん現代日本の温泉に比べれば、物質的にも技術的にも低水準でしょうが、

しかし基本的な温泉文化のあり方としては、

古代も、現代も、

さほど大きな違いがあったとは言えないようです。

しかも、古代ローマの浴場は、

もはや遺跡や資料の上だけでしか残っていない、

つまり「文化財文化遺産」でしかない、

一度は滅亡したり、

断絶した、いわば「死んだ文化」であるのに対して、

日本ではいぜんとして

「生きた文化」であり、「実際上の生活習慣」として、

太古の昔よりずっと今まで続いている

という特徴があります。

KIMG0389.JPG▼宗教により、古来の文化が衰えず、むしろ発達する


また、日本で日常的に入浴する習慣ができるのは、
神事の「禊」のほかにも、
仏教からくる「沐浴(もくよく)」の影響も指摘されています。

また「沐」とは髪を洗うという意味で、
髪を洗うための米のとぎ汁を指す場合もあり、
湯水を使って身体を洗うのが「浴」です。
平安貴族の日記では
「沐頭」「浴頭」などと書き分ける場合もあります(前掲八岩)。

さらに、古代の僧・行基(ぎょうき)や空海が全国で温泉を発見したという説話が数多く残っていますが、
奈良時代以来、
よく読まれた仏典である『仏説温室洗浴衆僧経(略称・温室経(おんしつきょう))』には、
「七病(しちびょう)を除き、七福を得る」と、
入湯の効能が説かれていました。

行基も尽力した東大寺の大仏造営が始まった天平十九(747)年には、

「温室」(蒸し風呂の施設)を造るために、
その費用として、銭、銅、鉄などを配分したという記録も残っています。

📚「仏説温室洗浴衆僧経」は『大正新脩大蔵経十六 経集部三』に所収。
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光明皇后(こうみょうこうごう)が、
貧者や餓者のために
悲田院・施薬院をつくって社会福祉事業を始めたエピソードは有名ですが、
その説話の元となっている
元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』(1322年。日本最初の仏教史の通史)によれば、
皇后は夫の聖武天皇の政治をよく助けていることを自らの誇りとしていたけれども、
ある夜、
暗中から不思議な声がして、
「皇后よ、それを誇ってはいけない。
浴室を作って彼らを洗い清めれば、その功徳は、さらに大きくなる」
と告げられます。

そこで、皇后は「温室」を作って、
自ら千人の俗人の垢を流し、
最後に全身に膿を持つ病者(らい病)の願いを受けて、
その膿を口で吸い出します。

「このことは誰にも言わないように」
と皇后が、例のの不思議な戒めを守って言うと、
かの病者は
大きな「光明」を発して、
「皇后は阿閦仏(あしゅくぶつ)
(※大日如来の説法を聞いて発願し、修行の後に成仏し、浄土で説法しているとされる仏のこと)
の垢を落としたのだ」といって、
光と香りを放つ
輝くばかりの容貌となって
天に上ったといいます。
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こうした皇后の説話自体は、仏教布教のための創作なのかもしれませんが、
しかし、温室経にあるような、単に入浴の功徳や効能ばかりでなく、
身分や身なりの大きな違いを超えて人々をいたわる
皇室の神聖性や人間的な繋がり、
あるいは宗教的な奇跡、戒め、
光明皇后の謙虚さなどが、
貴族上流社会のみならず、
一般的なレベルでも共有されていた(あるいは次第に広がっていった)であろうことがうかがえます。

また、キリスト教により入浴文化が衰えた西欧の場合とは違って、
新しい宗教(仏教)が導入されても、
古来の伝統文化が衰えず、
むしろ先に見た風土記の場合もそうですが、
皆で入浴や宴を楽しみ、健康や清潔さを保つといった、
実際的で、身分や階級を超えた
平等的な生き方や考え方が
日本の場合にはうかがい知れます。
しかも
光明皇后の説話にも見えるように、
外来の新たな宗教や文化の移入により、
かえって文化的にも、宗教感情的にも、
入浴の文化や習慣が発達している
というのが、
日本の場合の特徴と考えられます。

次回は、中世以後について考えてみます。
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