doi_iku’s blog

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湯と温泉の日本史♨🛀(下)

神でも、法でもなく、「銭湯の下の平等」
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▽銭湯が教える日本の道徳

数年前の話ですが、
外国人が温泉で大騒ぎしたり、飲食したりして、
一時、「外国人は入浴禁止」となった北海道の温泉がありました。
平成26年に大ヒットした
邦画『テルマエ・ロマエ』の原作漫画(ヤマザキマリ著)の中でも、
古代ローマ帝国の浴場(テルマエ)技師ルシウスが、
現代日本の銭湯にタイムスリップし、
傍若無人で無礼な振る舞いの外国人(髭もじゃのロシア人)に遭遇して、
大乱闘となる場面が描かれています。
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ちょうどローマ帝国(2世紀)でも、元傭兵や解放奴隷のゲルマン人のマナーの悪さが、
ローマの浴場(テルマエ)の人気低下や経営難の原因となっていたので、
ルシウスは激怒し、
言葉の通じない「蛮族」たる現代ロシア人を相手に、
ローマ軍兵士さながらに
スノコ板(ルシウス本人は楯のつもり)とデッキブラシ(矛のつもり)を持っての大乱闘となります。

ですが、こうした大ゲンカから一転して、
両者が急に和解し、
一緒に湯を楽しむようになるのは、
銭湯によく貼ってある
「入浴マナーを守ろう」とか
「静かにお湯に入りましょう」といった
イラスト図解入りの掲示板や
ポスターを彼らが見たからでした。
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ルシウスによれば、
日本の入浴マナーは
「完璧」
であり、こうした図解の掲示のおかげで、
粗暴で野蛮な連中とも
一緒に、湯を楽しみ、堪能できる!
「何という達成感であろうか…。
私が何をしても越えられぬ恐るべき種族(=日本人)…」
と、ますます日本文化に魅了されていくのですが、
じつは、こうした礼儀正しい入浴マナーは、
江戸時代の銭湯においても、
現在とほぼ同じように守られていました。

『洗湯手引草(せんとうてびきぐさ)』(1851年)という書物を見ると、
「定(さだめ)」(規則)
として、
「一(ひとつ)、男女入込(いりごみ)湯御停止事(ごちょうじのこと)(混浴禁止)」、
「一、喧嘩口論惣(すべ)て物騒敷(ものさわがしき)儀(ぎ)堅(かた)く御無用之(ごむようの)事(ケンカや騒ぎは厳禁)」などの
十ヶ条が紙に書かれ、
浴場の入口(柘榴口(ざくろくち)と呼ばれた)に貼ってあったことがわかります。
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また、有名な式亭三馬の『浮世風呂』(1809年。銭湯を舞台にした流行小説)を見ると、
「銭湯には五常(ごじょう)の道」があり、
儒教の「仁義礼智信」の五つの道徳があるとして、
次のように書いてあります。

先ず、湯をもって身体を温め、
「病を治し草臥(くたびれ)を休(やす)むる」のが、
医術にも通じる「仁」の道である。
次に、
「桶(おけ)のお明(あけ)はござりませぬか」と聞いて、
勝手に「他(ひと)の桶には手をかけず」、
個人用の「留桶(とめおけ)を我儘(わがまま)に」使わずに、
空(あ)いたらすぐ桶をもどすことなどが「義」である。
湯に出入りする時は「御免なさい」、「お早(はや)い、お先(さき)へ」
あるいは「お静(しずか)に、お寛(ゆる)り」などと
一声かけるのが「礼」である。
熱ければ「水をうめ」、
ぬるければ「湯をうめ」、
お互いに「背後(せなか)を流しあふ」のが「信」である。

ここの辺(あたり)は、
じつは山東京伝の『賢愚(けんぐ)湊(いりごみ)銭湯新話』の
文章の丸写しなのですが(1802年新日本古典文学大系)、
とはいえ、「銭湯は儒教尊い徳に通じる」といった
冗談交じりで、
肩の凝らないくだけた調子が、
日ごろ、近所の銭湯を楽しみに通っていた
江戸庶民の情緒や心掛け、
マナーのあり方などを
身近に伝えてくれます。


▽福沢の「天は、人の上に…」も、「湯の下の平等」の影響

浮世風呂』の冒頭には序文があり(世のお堅い大著をからかうパロディ)、
銭湯のもたらす徳、
人間平等の精神や思想について、
次のように説いています。

浮世風呂大意」(現代語訳)

……つらつら考えるに、銭湯ほど人倫への近道(ちかみち)の教えはない。
その理由は、賢愚、正邪、貧富、貴賎、湯を浴びる時は、
皆、裸になるのは天地自然の道理である。

お釈迦様も孔子様も於三(おさん)(下女)も権助(ごんすけ)(下男)も、産まれたままの姿で、
惜(お)しい欲(ほ)しいも西海(さいかい)の彼方、
さらりと無欲の形(なり)ではないか。
欲と煩悩の垢を洗い清め、
清浄な湯を浴びれば、
旦那(殿様)も武家の下男も、
誰が誰やら同じ素っ裸。
オギャアと生まれた産湯(うぶゆ)から、死ぬ時の湯灌(ゆかん)まで、
夕べの赤ら顔の酔客も、
朝湯に入れば素面(しらふ)のごとく、
人の生死はままならぬもの。
…猛(たけ)き武士(もののふ)も、
頭に湯をかけられても「人混みだから」と我慢する。
目に見えぬ鬼神(きしん)を刺青(いれずみ)にして彫っているヤクザも、「ご免なさい」と遠慮する。
これを銭湯の徳といわずして何であろう。
心ある人間にも私心があり、
心ない湯には私心はなし、
とはこれいかに…

これらの文章は、
じつは『古今集序(こきんしゅうのじょ)』や蓮如(れんにょ)の有名な文章などをふまえた、
いわば古典名著のパロディ(まさに戯作(げさく)‼️)なのですが、
ここの主張をもう少し敷衍して
言い直してみるならば、
人間は、果たして何を前にして平等といえるのか。
神の前の平等か、いや、法律の下の平等か、
はたまた人倫道徳の下の平等か。
いやいや、日本人はそうではない。「銭湯」の下の平等、
「裸」の前の平等である、
と。
身分格式、封建的な制約、
上下関係が厳しかった時代に、
憂世(うきよ)のしがらみやら
窮屈さやらを明るく笑いとばして、
「湯の下における平等」を高らかに宣言し、謳い上げていた。
それが江戸の大衆文学作家たる戯作者(げさくしゃ)ならではの心意気であったと考えられます。

明治期の福澤諭吉も、
滑稽本の唱える
「湯の下の平等」の思想に影響を受けていた一人といえます。
というのも、例えば、
「ひとしく八文の銭を払って銭湯に入っていながら、
身辺に一物もなく丸裸で、
どうして士族は旦那と呼ばれて威張り、
平民は貴様と呼ばれて萎縮しているのか…」(『通俗民権論』1878年。口語訳)。
また、悪名高い
楠公(なんこう)権助論(ごんすけろん)」とよばれる文章も、
福澤の大ベストセラー『学問のすゝめ』の中に
次のように見えています(七・八編 明治七年)。
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南朝の偉人・楠正成が最期を遂げる名場面といっても、
まるで銭湯の下男が百両を落として、
慌てて自殺したのと同じレベルの話ではないか、
ならば、楠公も、銭湯の権助も、
同じ人の子であり、
人として平等であるなどと、
いかにも露悪趣味の
福澤特有の文章が見えており、
当時は、この楠公権助論を発表したことで、
福澤は暗殺対象となったほど攻撃されたといわれます。

楠公への不敬は
手ひどく攻撃はされましたが、
しかしながら、
これも銭湯の権助の話でした。
こうなると、
福澤が唱えた有名な
「天は、人の上に人を造らず」といったような
近代的な平等思想の発想であっても、
じつは、西欧の平等主義や啓蒙思想の影響というより、
江戸の滑稽本に見るような
「銭湯の下の平等」の影響がうかがえ、
むしろ実感的な記述になっているわけです。
おそらく
西欧の格言を出したのは
あくまで文章表現上の話であり、
むしろ福沢の実感の上では、
銭湯のような
身近な生活感覚が影響しており、
楠公の悪口を書くにしても、
つい銭湯の権助の話が出ており
ここのあたりに
福沢の基本的な発想のあり方が
うかがえるのではないでしょうか。

▽「施浴」と温泉、銭湯による人間平等

またそもそも、
日本において「湯の下の平等」の原則が生まれたのも、
思想やイデオロギーの影響というより、
仏教の普及によって入浴習慣が生まれ、
それが日常的に繰り返されたことの影響が大きいと考えられます。

例えば、前回も述べた、
千人の垢を洗って、仏の化身に出会ったという光明皇后のエピソードもそうであり、
また、そうした皇后の偉業を追慕して、
中世の時代に、らい病患者の施設(奈良の北山十八間戸)を造った忍性(にんしょう)(1217~1303)らの功績も有名です。

もともと寺院には、
「施浴(せよく)」といって、
身分貴賎を問わず、多くの庶民に入浴を施すことで、
故人を追善するという法要行事を行う慣行がありました。
源頼朝は、
敵対関係にあった後白河法皇崩御(ほうぎょ)(1192年)されたという報(しら)せを聞いて、
初七日の御追善(ごついぜん)の大法要のほかに、
鎌倉の浴堂において百日間の施浴を催し、立札をたてて、
一日百人、延べ一万人を入浴させています。
さらに、鎌倉幕府は、
頼朝の妻政子の病没後、
その霊のたたりを恐れてなのか、
浴堂を建てて、
毎月六回(六斎日)の施浴を
十五年も施した
という記録も残っています(武田勝蔵『風呂と湯の話』)。
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一方、前回見たように、
奈良時代出雲国風土記(ふどき)には、
国造(くにのみやつこ)の禊(みそぎ)とともに
老若男女が「神の湯」の温泉、宴や歌を、連日楽しんだ様子が描かれていました。
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こうした、神話時代までさかのぼる温泉文化に始まり、
光明皇后の逸話、身分貴賤を超える仏教施浴の慣行、
皇后の偉業を慕った究極の救済事業、
さらには、江戸の滑稽本に見える「湯の下の平等」の思想が生み出され、
これらが幕末明治における福澤らによる近代平等思想の基盤となっていた、
と見ておくのが、
歴史的には、だいたい穏当なところではないでしょうか。

要するに、有名な「天は、人の上に人を造らず」の西欧啓蒙思想よりも、
「湯の下の平等」の慣習的な影響こそが、
日本人の平等思想を
根底では支えていたと考えられるようです。

このように、明治の日本人の平等観や人間観は、
西欧啓蒙思想の影響というより、
歴史的な「湯の下の平等」の思想から来ると考えた方が、
よほど説得力があり、
今の現代社会にまで通じる、
より一般的で、
普遍的な歴史の見方や考え方になっている
ようです。
そもそも、
西欧の天賦人権説や啓蒙思想とは、
かのフランス革命をはじめとする
市民革命のイデオロギーであったように、
それはまさに
過去との断絶であり、
革命的で、非歴史的な概念であったといえます。
それゆえ、西欧近代型の平等主義は、
上記に見た日本の湯の下の平等という歴史的な思考とは、
ほとんど対極的な思想の産物であり、
じつは福澤は、
その両極の上に立って
西欧啓蒙思想や天賦人権説を唱えていたことになります。

現代フランスの文化人類学
西欧的な市民革命による
非歴史的な思想とは、
じつは「真実の自由ではない」と主張しました(『遠近の回想』)
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「(フランス革命は)人々の頭の中に、社会というのは習慣や習俗でできているのではなくて、
抽象的な概念に基づいているのだという考え、
または理性の血で慣習や習俗を挽き潰してしまえば、
長い生活形態を雲散霧消させ、
個人を交換可能な無名な原子に変えることができるのだ
という考えをたたきこんだからです。
真実の自由は、具体的な内容しか持つことはできません。」

また、レヴィ=ストロースは次のようにも述べています。
「自由に合理的とされる基本的原理を与えることは、
自由の豊かな内容を排除し、
自由の基盤そのものを打ち崩すことになる。
守るべき権利に非合理な部分があればこそ、よりいっそう自由に執着するからだ。
非合理な部分があることで、
個人は普遍的な自由に抵触することなく、ごくわずかな特権やとくに問題にならない不平等などのような手近な拠りどころをみつけられる。
現実の自由とは
長いあいだの慣習、好みなど、
つまりはしきたりの自由である。
…〈信条〉(ここでは宗教的な信条・信仰の意味ではない。ただし、そのような信条を排除するものではないが)のみが、
自由を擁護するものとなり得る。
自由は内側から維持されるものであって、
外側から構築しているつもりでいると実は内側で崩壊が進んでいるものなのだ。」(『はるかなる視線 2』)
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要するに、レヴィ=ストロースは、
歴史や伝統に裏打ちされない自由や権利、すなわち
天賦人権説や啓蒙思想などを起源とする自由とは、
「真実の自由ではない」のであり、
むしろ自由としての「内容を持たず」、
「自由の基盤そのものを打ち崩す」
と警告しています。
こうしたレヴィ=ストロースの思考について、
現代フランス思想の研究書であるJ・G・メルキオール『現代フランス思想とは何か』では、
次のように解説されています。
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「かれ(レヴィ=ストロース)は市民的自由についてかなり保守的な見解を示している。
…自由とはコンテクストに拘束される概念である、すなわち自由とは、長期間に及ぶきわめて特殊な歴史的経験の成果であるところの、
アングローサクソン的な意味での近代的自由である、と強調する。…」

「かれは、とりわけ、〔本当は歴史の所産である〕自由を誤って絶対的なものと考えないように警告する。
…合理主義的、普遍主義的な自由の定義は社会的多元主義と衝突する、と主張する。
真の普遍性を要求できるものがあるとすれば、
それは〔具体的な〕ひとつの権利だけである。
それは、『精神的存在としての』人間の自由ではなく、
『生きている存在としての』人間の自由である。」

こうしたレヴィ=ストロースの「自由」に関する主張には、
アレクシス・ド・トクヴィルの説いた
「抽象的政治文学」批判、「多数者の専制」批判、「結社」の自由、宗教や慣習にもとづく自由の議論などの影響、
あるいは、エドマンド・バークのいう「偏見」「時効」「慣習」のもたらす「自由」の言説の影響も
考えておくべきでしょうか。

ちなみに、バークが、偏見や時効の功徳を説いたのは、
しばしば迷信と呼ばれる人間精神の働きにこそ、理性を補完・拡張する潜在的可能性を見たからでした。

なぜなら、人間の思考とは、
長い時間をかけて漸進的に発達したものであり、必ずしも合理的に設計されていないからであり、
「偏見の上衣を脱ぎ捨て裸の理性の他は何も残らなくするよりは、理性折り込み済みの偏見を継続させる方が遥かに賢明である。」(『フランス革命省察』)
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バークによれば、
習慣もまた、人間の理性を拡大するものである。
人間は習慣という衣を身にまとうことではじめて人間となる。
だからこそ、古代以来、立法者と呼ばれるような人々は、
市民の生活の多様な側面を観察し、その習慣に学ぼうとした。
これに対し啓蒙思想は、
人間のあらゆる関係性をはぎ取り、抽象的に考えた点に、
その弱点があったのである(宇野重規保守主義とは何か』)。

ちなみに、バークは、
啓蒙主義や人権論を攻撃したからといって、
自然法や社会契約を全面否定したわけではないようです。
バークの考えによれば、
人間本来の権利とは、
歴史上のある時点で起きた契約とか、単なる理論的な契約や法律的な概念ではない。
すなわち、他者を信頼する者すべてによって再確認されていく契約、
祖先の過去から現在の我々そして子孫へとつづく契約にもとづくものである(R・カーク『保守主義の精神』上)。
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バークによれば、
社会契約や自然法もまた、
歴史的産物なのであり、
神の理想を実現するための人為的な法であるに過ぎない。
それゆえ、
一時的な法律契約よりも歴史的な契約
つまり伝統や慣習によって、
人間は個々の状況を越えて
普遍的で、安定的な、
より一般的な判断に立つことができる。
こう考えてくれば、
日本人の自由や平等観、人間観もまた、
歴史的な自由の上に成り立ち、
長い時間をかけて漸進的に発達したものであり、
それを基盤にして、
福澤のように
西欧啓蒙思想や天賦人権説が上乗せされたもの
と見ることができるようです。
それは、
レヴィ=ストロースの「自由」の思想から見ておくならば、
「コンテクストに拘束される概念」であり、
「長期間に及ぶきわめて特殊な歴史的経験の成果であるところの、アングローサクソン的な意味での近代的自由」
そのものといえます。
あるいは、
バークの言うところの
「他者を信頼する者すべてによって再確認されていく契約、祖先の過去から現在の我々そして子孫へとつづく契約にもとづくもの」
と見ておいた方が、より正確なのかもしれません。
およそ、古来の歴史的で、
伝統的である習慣もまた、
「人間の理性を拡大するもの」なのであり、
そうした人間の
「理性を補完・拡張する潜在的可能性を持つ」ものこそが、
日本人の「湯の下の平等」の思想に見られるような、
歴史的な自由・平等観、人間観であると考えおいても、
大きな間違いはないのではないでしょうか。
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