doi_iku’s blog

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国境・国土観の変遷と歴史的感覚(ヒストリカルセンス)

龍の棲む日本の境界

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 毎年二月七日は「北方領土の日(昭和五六年閣議決定

二月二二日は「竹島の日島根県の平成十七年の条例)であり、

外国による不法占拠が

未だ続いていることを記憶するとともに、

領土返還運動を一層推進する日となっています。

その一方で、

日本の国境は

古来明確ではなく、

変動があり一定しないとする話も、

この時期必ず出てきます。

確かに、

平安時代追儺(ついな)(※疫鬼を域外へ払う儀礼)祭文(さいもん)には、

「東方(ひがしのかた)陸奥、西方遠値嘉(とおつちか)(※五島列島)、南方土佐、北方佐渡」を

「四方之堺(よものほとり)」と記しており、

中世では、

東は外ヶ浜(青森県海岸部)、

西は鬼界ケ島(鹿児島県三島村・十島村の諸島)が

「日本の境」と意識されていました。

また、日本列島の周縁には、

近代の国境線のような明確な線で内外を分かつ「バウンダリー」とは異なり、

必ずしも国家の支配にはよらずに異国との通行・通商を行う、

漠然とした「フロンティア」の領域があったとする研究もあります(B・バートン『日本の「境界」』)


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けれども、

歴史上の国境の不明は、

自他の境界や国土意識の希薄を必ずしも意味しません。

例えば、

鎌倉期の有職故実の書『二中歴(にちゅうれき)』には、

京からの里程を、陸行、水行の日数で示す

〈道線日本図〉があります。

このため、中世国家の「実質は〈線〉」であり(『黒田俊雄著作集1』)、

また人々の意識においても、

身の回りの日常を超える大域的な構造よりも、

個別的な関係や地縁などに依存する

局所的な構造の方が重視されていました(『石井進著作集6』)。

このため、当時国土は〈面〉というよりも、

中央から対象へと関係する作用線で意識される傾向があり新田一郎『中世に国家はあったか』)

そうした人的関係の〈線〉の及ばない周縁部に、

近代のバウンダリーとは異なる〈フロンティア〉の領域が残されていたと考えられます。

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鎌倉後期の密教の書『渓嵐拾葉集(けいらんじゅうようしゅう)』によれば、

古代僧の行基は日本地図を独鈷(とっこ)(密教法具の一種)の形によって描かれていた。

国生み神話の天瓊矛(あめのぬほこ)、伊勢神宮の心(しん)の御柱(みはしら)、天皇の神璽、

そして、国土を海底で支えている大日如来の印文(梵字)も、

いずれも神聖なる独鈷の形としており、

したがって、日本は異国の侵略を受けないなどと記されています(黒田日出男『龍の棲む日本』)。


また、蒙古襲来を機に作成されたと思われる

金沢文庫日本図」では、

龍が日本をぐるりと取り囲む形で描かれ、

諏訪大明神絵詞』には、

同神が「大龍」となって暴風を吹かせ、

蒙古の大軍を全滅させたとあります(黒田)

 

こうした、龍神が外敵から国土を守り、

独鈷の形により内外を分かつ、シンボリックな宗教的イメージこそが、

国境としての〈バウンダリー〉の萌芽であり、

その輪郭の内側に「日本」としての均質性や共同性が与えられ、

輪郭の外側との間の異質性を明確にしていたと考えられます(前掲新田)

また同時に、局所的な日常の身辺を超えるような

大域的な「神国」としての共同体意識も拡がっていき、

有名な秀吉や家康によるキリスト教禁令にも神国」思想が反映されていました。さらに

幕府による鎖国の海禁によって、

国土の領域が自然と決定されたことで

「〈国民〉の早熟な形成」(荒野泰典『近世日本と東アジア』)が促されました。

つまり、中世的な宗教思想であった「神国」観が、

近世では「国民」国家形成へと通じる国内状況をもたらし

国際状況への対応をも決定する要因にもなっていった

と考えられます高木昭作『将軍権力と天皇』)


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▼「神国」から「帝国」「皇国」へ


いっぽう、〈面〉としての支配意識としては、

江戸幕府が慶長年間(一六〇〇年代)に詳細な「国絵図」の作成を諸藩に命じたことで本格化し、

国絵図作成により、

太閤検地以来の検地事業と並んで全国の領地が詳細に把握されていきます。

国絵図は江戸後期の天保年間(一八三十年代)に作られなくなり、

それは伊能忠敬大日本沿海輿地全図』が完成した(一八二一)影響といわれますが、

伊能図は、蝦夷を最初の測量地としたように、ロシア南下の対外不安を契機とするもので、

海岸線を描くことに主眼が置かれています。

つまり、伊能図は、

内地の把握を主目的とする幕府図とは

明らかに作成の意図や動機、形態を異にしており(R・トビ『全集日本の歴史9』)

対外的意識を強く持った日本地図であった

と考えられます。

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大黒屋光太夫が十年に及ぶロシア漂泊について語った

『北槎聞略』桂川甫周編、一七九四)を見ると、

「世界には四大州があり(アジア、欧州、米州、アフリカ)、そのうち(帝国や帝王の)帝号を持つ国は七国であり、皇朝(日本)は最も明らかである」(現代語訳)とあります。

また、光太夫によれば、

ペテルブルグでは「道で人に会っても、コロレスプツア(王国)といえば、どうということもないが、

イムペラトルスコイ(帝国)といえば、すぐに威儀を正して上席を譲ってくれた」とも語っています(平川新『全集日本の歴史12』)

 

こうした光太夫とは別に、

仙台藩医の蘭学者大槻玄沢は、若宮丸漂流民から、

やはり「インペラトリの国」としてロシアで称賛されていたという話を聞いており、

聞書きとして、「日本は土壌狭小なりといえども、皇統一世、万古不易、帝爵の国号、他の諸邦に優れるものにして、外域のもっとも尊重畏服する所以なり」と記しています(環海異聞。一八〇七)

いわゆる鎖国論で知られるケンペル『日本誌』(十八世紀刊)ラテン語書名も

「日本帝国誌」であり、

天皇を「教皇世襲皇帝」、

将軍を「世俗的世襲皇帝」と記しています小堀桂一郎鎖国の思想』)

つまり近世日本は、

西欧の帝国と基本的な構造が似ており、

大名が諸侯に、将軍が皇帝に、

天皇ローマ教皇に擬せられていました。

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幕末のペリー来航のさい、
水戸前藩主の徳川斉昭
「開闢以来の国恥」と激怒した理由は、
諸外国が日本を「帝国とあがめ尊び、恐怖致し」ているのに、
米国は江戸湾に勝手に入ったからであり、
測量するなど無礼を働いたからであると述べています(海防愚存)。
実際、
他国に無断で測量する行為は、
当時の国際法に違反していました(前掲平川)。

アヘン戦争直後の箕作省吾(しょうご)『新製輿地全図』『坤輿(こんよ)図識』(一八四四・五)は、
十五・六年前までのオランダ語の情報だけを用いて記された、
当時としては驚くべき水準の地図や地誌ですが、
それらは、世界の地理の記述を
「皇国」から開始しており、
当時の蘭学者
国学や水戸学と世界の秩序意識を共有していました。
また、箕作は、
世界を「独立」国と「附属」国とに分け、植民地化から「独立」を守ることを緊要の課題としているように(三谷博ら『韓国・日本・「西洋」』)、
「皇国」「帝国」との意識は、
当時の思想や立場の違い、身分や地域の違いを超えて、
共通する認識、
普遍的で世界的な認識を人々に与えていた
と考えられます。

ちなみに
「攘夷」とは「鎖国」のことではありません。
国体思想を最初に説いた水戸学の会沢正志斎『新論』(一八二五)によれば、
「篭城」は自滅への道であり、
一番危険なのはロシアであり、
その世界支配運動に対抗して、
清やトルコと提携することを提言し、
西洋軍事技術の導入や土着武士による軍国体制などを唱えていました。
会沢の主張は、
林子平らの対露海防論者たちとも論理的に共通性があり、
また、後に「夷を以て夷を制する」ことを唱えて
鎖国攘夷」ではなく「開国攘夷」をイメージしていた
開明主義者の佐久間象山らとも共通する面があります。

じっさい、会沢の『新論』を愛読するとともに、
象山を尊敬していた者には、
吉田松陰西郷隆盛ら多くの幕末志士たちがいました。
彼らと同様に、
攘夷から開国論へ転向したような一面があります。
要するに、
「攘夷」論と「開国」論との間には、
実際には大きな隔たりはなかったと考えられ、
むしろ「皇朝」「皇国」意識という独立への志向、
植民地化への危機感を共有する、
国家改革論者たちの主張であった、
と考えられます。

そもそも、安政条約の締結によって、
開国した張本人の幕府大老井伊直弼からし
徹底した西洋嫌いの攘夷論者であり、
勝海舟福沢諭吉開明主義者から見れば、
開国した幕閣の面々とは、
日本を開国させておきながら、
本当は外国嫌いの攘夷論者という、
非常に矛盾した思考を持つ人々でした。

また、福沢によれば、
幕末から明治初期に外国に渡り、先進文物をたくさん見たけれども、
それ自体はさほど驚くべきものではなかった、
つまり日本はそれほど欧米に遅れてはいない、
それゆえ、
「我日本国人も今より学問に志し、気力を慥(たしか)にして先ず一身の独立を謀り、
随つて一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。
道理あるものはこれに交はり、
道理なきものはこれを打ち払はんのみ。一身独立して一国独立することはこの事なり」(『学問のすすめ』第三篇)

日本はさほど遅れてはいないのだから、
懸命に学問すれば、
日本は富強になり、西欧には決して負けない。
道理のない外交を迫ってくる国などは、武力で打ち払ってしまえ、
と福沢は言っています。
福沢は、
西欧には絶対に追いつけないとか、
最終的には勝てないとかのコンプレックスや絶望感とは、
全く無縁の人でした。

こうした先進的な西欧社会を実見しながらも、
近い将来、必ず西欧に勝てるとする明瞭なイメージは、
植民地の下に苦しんでいた、
他の有色人種の国々の間では
まず見られない類いの言論ではないかと思われます。

学問のすすめ』は340万部を超える驚異的なベストセラーとなったといわれ、
「まず自国を外国から守るためには、自由独立の気風を全国に盛り上げ、国の独立という目的のために、一人一人が責任を担おう」というメッセージを全国に広く伝えていました(斎藤孝『日本人を教育した人々』)。

この決して娯楽書とはいえない書を、
当時の日本人の一割以上が読んでいました。
「この事実に率直に驚きを感じる」と竹中平蔵氏(元内閣府経済財政政策担当大臣等)は述べていますが、
「一個人の独立なくして一国の独立もない…著者(福沢)はもちろん立派だったが、読者もまた立派な時代だった。」
と言う竹中氏の感想(『外交』16、平成20年11月)は、
氏の言うとおりではないでしょうか。
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繰り返しますが、
江戸後期から幕末以来、日本では立場や身分、考え方の違いを超えて、
国家の独立や植民地化の危機について一定の共通認識があり、
明治維新を前に「皇朝」「帝国」の名のもとに、
国家の分裂や混乱を未然に防ぎ、近代化や西欧化に向けて
大まかな意思統一がはかられていたと考えられます。


▼「父祖の霊地」から、死活的な「共同対処」へ


米国セオドア・ルーズベルト大統領に愛読され、
西欧世界でベストセラーともなった新渡戸稲造『武士道』(一九〇〇年)によれば、
日清戦争の勝利とは、
単なる銃砲や技術の勝利だけとは言えない、
鴨緑江での、朝鮮での、満州での勝利は、「我らの手を導き、我らの心臓に鼓動する父祖の御霊によるもの」と述べています。
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現在、中国は

尖閣諸島日清戦争という日本の侵略により

不当に奪われたと主張しますが、

しかしながら下関講和条約およびその交渉過程では、

尖閣諸島への言及は一切現れていません。

また近年の日本側の研究では、

当時は、清が共同朝鮮内政改革との日本提案を受入れていれば、

日本は撤兵したであろうし戦争も起らなかったとする伊藤博文首相の立場や証言を、

歴史的に見て妥当と考えています(大澤博明ら『日清戦争と東アジア世界の変容』下)

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現在の米国は、

日米安保条約第五条(共同対処)尖閣諸島への適用を明言するとともに、

「第三国による一方的な行為(※中国による領空・領海・領土侵犯等を主に想定)」は、米国の認識に「影響を及ぼさない」ことを強調し、

東シナ海はアジアの共有海域の死活的一部」である

とも述べています(二〇一三年度国防授権法への修正条項。R・Ⅾ・エルドリッヂ『尖閣問題の起源』)

かつての、

蒙古を撃退し、キリスト教を排除した宗教的な「神国」から、

普遍的で世界的な「帝国」、植民地ではなく独立した「皇国」へ―、

そして、近代戦による「父祖の霊地」から、

現代の日米同盟による死活的な「共同対処」へ――

国土観や国境観は、大体このように歴史的には概括できると思われますが、

われわれの「伝統」とは「頭脳というよりは、

いわば血の産物」であり、

「直接目標とされるべきものではなく、

正しい生き方の副産物と見做されるべきもの」であるといわれます(『エリオット評論選集』)

つまり「伝統」とは、

いわば個人の意識や思想を超える「熟練した事業」である。

その連続し、熟練した事業としての「伝統」の系譜に連なることで、

個別的な個人を超えた、

より大きな秩序の中に生きる

「歴史的感覚(ヒストリカルセンス)」(『エリオット全集5』)とともに、

人々の尊厳や人間性を向上させてきたのが、

日本の国土・国境の歴史であった

と考えられるようです。

  

近年、習近平(当時は副主席)は、

尖閣問題についてパネッタ米国防長官(当時)との会談で

「日本軍国主義は米国を含むアジア太平洋の国々に巨大な傷を残した」と述べて、

尖閣問題に関して過去の歴史問題を持ち出しました(平成二四年九月一九日)

日清戦争以来、日本は「侵略国家」であるという歴史認識は、

起源的に見れば、

一九三九年に毛沢東らが革命運動の教科書として作ったパンフレット『中国革命と中国共産党(『世界の大思想Ⅲ毛沢東』)から本格化したと考えられます。

毛沢東らは、アヘン戦争(一八四〇~四二)清仏戦争(一八八四)の敗北と並べて、

日清戦争も「侵略戦争」とし、「中国を半植民地あるいは植民地に変えられた」と主張しました。

現在の日本共産党も、

日清戦争侵略戦争と主張し、尖閣は日本領としながらも、

台湾や澎湖諸島は日本の「侵略性」や「拡張主義」によって奪われたとの侵略史観に立っています。

しかし、こうした侵略史観は、

後年になって「つくられた」歴史観という一面があります。中国人の日本留学が始まるのは日清戦争の翌年(一八九六)からで、

日露戦争の後には、中国人の日本留学ブームがおこり、

一九〇五・六年には、八千人から一万人のピークに達しています。

「侵略」された直後の相手の加害国に留学生が大挙して自ら押し寄せるのは不自然です。

現在の中国や共産党が言う、日清戦争以来の「中国侵略」という見解は、

後になって意図的に作られた歴史観であり、毛沢東に始まる歴史観と見た方が正確でしょう。

そうした意味では、

日本の国土・国境の歴史を「より大きな秩序」の上から見ていくことは、

現代中国の覇権主義に対抗し、

毛沢東以来の「侵略」史観の意図を明らかにするとともに、

新たな伝統の「歴史的感覚」を日本人に付与することにもつながるであろう

と考えられます。

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