外国による不法占拠が
未だ続いていることを記憶するとともに、
領土返還運動を一層推進する日となっています。
その一方で、
日本の国境は
古来明確ではなく、
変動があり一定しないとする話も、
この時期必ず出てきます。
「四方之堺(よものほとり)」と記しており、
「日本の境」と意識されていました。
また、日本列島の周縁には、
近代の国境線のような明確な線で内外を分かつ「バウンダリー」とは異なり、
必ずしも国家の支配にはよらずに異国との通行・通商を行う、
漠然とした「フロンティア」の領域があったとする研究もあります(B・バートン『日本の「境界」』)。
けれども、
歴史上の国境の不明は、
自他の境界や国土意識の希薄を必ずしも意味しません。
例えば、
鎌倉期の有職故実の書『二中歴(にちゅうれき)』には、
京からの里程を、陸行、水行の日数で示す
〈道線日本図〉があります。
このため、中世国家の「実質は〈線〉」であり(『黒田俊雄著作集1』)、
また人々の意識においても、
身の回りの日常を超える大域的な構造よりも、
個別的な関係や地縁などに依存する
局所的な構造の方が重視されていました(『石井進著作集6』)。
このため、当時国土は〈面〉というよりも、
中央から対象へと関係する作用線で意識される傾向があり(新田一郎『中世に国家はあったか』)、
そうした人的関係の〈線〉の及ばない周縁部に、
近代のバウンダリーとは異なる〈フロンティア〉の領域が残されていたと考えられます。
鎌倉後期の密教の書『渓嵐拾葉集(けいらんじゅうようしゅう)』によれば、
いずれも神聖なる独鈷の形としており、
したがって、日本は異国の侵略を受けないなどと記されています(黒田日出男『龍の棲む日本』)。
また、蒙古襲来を機に作成されたと思われる
「金沢文庫日本図」では、
龍が日本をぐるりと取り囲む形で描かれ、
『諏訪大明神絵詞』には、
同神が「大龍」となって暴風を吹かせ、
蒙古の大軍を全滅させたとあります(黒田)。
こうした、龍神が外敵から国土を守り、
独鈷の形により内外を分かつ、シンボリックな宗教的イメージこそが、
国境としての〈バウンダリー〉の萌芽であり、
その輪郭の内側に「日本」としての均質性や共同性が与えられ、
輪郭の外側との間の異質性を明確にしていたと考えられます(前掲新田)。
また同時に、局所的な日常の身辺を超えるような
大域的な「神国」としての共同体意識も拡がっていき、
有名な秀吉や家康によるキリスト教禁令にも「神国」思想が反映されていました。さらに、
幕府による鎖国の海禁によって、
国土の領域が自然と決定されたことで
「〈国民〉の早熟な形成」(荒野泰典『近世日本と東アジア』)が促されました。
つまり、中世的な宗教思想であった「神国」観が、
近世では「国民」国家形成へと通じる国内状況をもたらし
▼「神国」から「帝国」「皇国」へ
いっぽう、〈面〉としての支配意識としては、
江戸幕府が慶長年間(一六〇〇年代)に詳細な「国絵図」の作成を諸藩に命じたことで本格化し、
国絵図作成により、
太閤検地以来の検地事業と並んで全国の領地が詳細に把握されていきます。
国絵図は江戸後期の天保年間(一八三十年代)に作られなくなり、
伊能図は、蝦夷を最初の測量地としたように、ロシア南下の対外不安を契機とするもので、
海岸線を描くことに主眼が置かれています。
つまり、伊能図は、
内地の把握を主目的とする幕府図とは
明らかに作成の意図や動機、形態を異にしており(R・トビ『全集日本の歴史9』)、
大黒屋光太夫が十年に及ぶロシア漂泊について語った
『北槎聞略』(桂川甫周編、一七九四)を見ると、
「世界には四大州があり(アジア、欧州、米州、アフリカ)、そのうち(帝国や帝王の)帝号を持つ国は七国であり、皇朝(日本)は最も明らかである」(現代語訳)とあります。
また、光太夫によれば、
ペテルブルグでは「道で人に会っても、コロレスプツア(王国)といえば、どうということもないが、
イムペラトルスコイ(帝国)といえば、すぐに威儀を正して上席を譲ってくれた」とも語っています(平川新『全集日本の歴史12』)。
こうした光太夫とは別に、
やはり「インペラトリの国」としてロシアで称賛されていたという話を聞いており、
聞書きとして、「日本は土壌狭小なりといえども、皇統一世、万古不易、帝爵の国号、他の諸邦に優れるものにして、外域のもっとも尊重畏服する所以なり」と記しています(環海異聞。一八〇七)。
「日本帝国誌」であり、
つまり近世日本は、
西欧の帝国と基本的な構造が似ており、
大名が諸侯に、将軍が皇帝に、
不当に奪われたと主張しますが、
また近年の日本側の研究では、
当時は、清が共同朝鮮内政改革との日本提案を受入れていれば、
日本は撤兵したであろうし戦争も起らなかったとする伊藤博文首相の立場や証言を、
歴史的に見て妥当と考えています(大澤博明ら『日清戦争と東アジア世界の変容』下)。
現在の米国は、
「第三国による一方的な行為(※中国による領空・領海・領土侵犯等を主に想定)」は、米国の認識に「影響を及ぼさない」ことを強調し、
「東シナ海はアジアの共有海域の死活的一部」である
とも述べています(二〇一三年度国防授権法への修正条項。R・Ⅾ・エルドリッヂ『尖閣問題の起源』)。
かつての、
蒙古を撃退し、キリスト教を排除した宗教的な「神国」から、
普遍的で世界的な「帝国」、植民地ではなく独立した「皇国」へ―、
そして、近代戦による「父祖の霊地」から、
現代の日米同盟による死活的な「共同対処」へ――
国土観や国境観は、大体このように歴史的には概括できると思われますが、
われわれの「伝統」とは「頭脳というよりは、
いわば血の産物」であり、
「直接目標とされるべきものではなく、
正しい生き方の副産物と見做されるべきもの」であるといわれます(『エリオット評論選集』)。
つまり「伝統」とは、
いわば個人の意識や思想を超える「熟練した事業」である。
その連続し、熟練した事業としての「伝統」の系譜に連なることで、
人々の尊厳や人間性を向上させてきたのが、
日本の国土・国境の歴史であった
と考えられるようです。
近年、習近平(当時は副主席)は、
尖閣問題に関して過去の歴史問題を持ち出しました(平成二四年九月一九日)。
しかし、こうした侵略史観は、
一九〇五・六年には、八千人から一万人のピークに達しています。
「侵略」された直後の相手の加害国に留学生が大挙して自ら押し寄せるのは不自然です。
そうした意味では、
日本の国土・国境の歴史を「より大きな秩序」の上から見ていくことは、
新たな伝統の「歴史的感覚」を日本人に付与することにもつながるであろう
と考えられます。