doi_iku’s blog

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農業という伝統産業

歴史のことば劇場46

 
日本の歴史は、ある意味、お米の生産の生産の歴史であり、

江戸期から現代まで、全体的に稲作生産は上昇しますが、

最大の画期は、戦後の高度経済成長期まで時代が降ります。

また生産性が、高度成長期までほぼ同一水準の地域が多くあり、

作柄の変動幅も、江戸期に比べて不安定性を示す地域が少なくなかった(佐藤常雄)

一般的に欧米の影響を受けた近代農法に高い評価を与えすぎで、

むしろ江戸期以来の「在来農法」が全国へと広がり、平準化していく過程が、日本の稲作の特徴といえます(同)

この在来農法を広く伝えたのが、江戸期の農書(農業技術書)であり、

北は津軽から南は琉球まで、元禄から享保期に集中的に現れ、この時期、

一定の文化的水準が農民層に広がり、先進技術への知的欲求が地域を超えて拡大します。

「日本一の農書」とされ、殆どの農書に影響を与えた宮﨑『農業全書』1697は、百数十の作物の栽培法を記し、

全ての百姓が農術に長けて「飢寒」から逃れることを願うとともに、

天・地・人の「心」に通じる「祈り」を農業の中核に据えた「天道」思想の書でした。

「稲を生ずる物は天である。稲を養うものは地である。…人の貴い理由は、天の心を受け、万物をめぐみ、養う心が、自ら備わっているからである」(現代語訳)

江戸時代は、こうした天道思想のもと、高い生産性と高度な精神性とを共に身につけた百姓が、全国に輩出する「農書の時代」ともいえますが、

明治以後、欧米の自然科学が、この長い歴史のなかで培われた農法に浸透します。

稲、蚕、野菜、花など多数の品種改良が進むほか、

台湾では永吉らが開発した蓬莱(日本種との交雑種)により農家の収益は約3割増え、

八田與一が指揮した有名な南大圳(用水路)の建築などから、

台湾の水田面積は日本統治から昭和13年までに2.7倍強、生産高は4.6倍近くに増えた。

朝鮮でも米生産量は同年までに約2.2倍、平均収量も2倍弱に増えます(西尾敏彦)

戦後、西日本から東日本に稲作の重心が移ったのは、

軽井沢の農家・荻原が開発した油紙保温折衷苗代法の普及以後とされ、

この手法は、昭和6年の大冷害で早植えの稲に被害が少なかったことから発見され、

昭和17年にはすでに完成していた。

しかし、豪雪地帯には通用せず、地元の要望を受けて開発されたのが室内育苗法で、

この(ちびょう)植えの普及こそが、

戦後最大の技術革新である田植機の成功をもたらします(昭和40

さらに、コシヒカリが既に敗戦前に新種開発されたのと同様に、

果物の「ふじ」「巨峰」「佐藤錦」などの高級品種も、戦前から戦中期の技術革新から生まれました。

いわば「昭和のレトロ技術」が、昨今の農産物輸入自由化という時代の荒波に敢然と立ち向っています(西尾)

現代農業が近代以前の膨大な蓄積の上に成り立つことは明らかで、

日本の稲作や農業は、最も高度に発達し、世界に影響を与えてきた伝統産業の一つと考えて誤りないのではないでしょうか。