歴史のことば劇場47
近時、インフレや石油高騰の懸念が報じられますが、
1970年代の石油危機やインフレについて、香西泰『高度経済成長の時代』(昭和56)などのスタンダードな著作に従えば、
昭和48年秋、日本経済は既に年率2割の物価上昇にあり、そこに石油危機が襲い、
化学品、鋼材、セメントなどが不足し、
トイレットペーパーや洗剤が店頭から消える騒動が起きます。
また、前年からの列島改造ブームで、土地投機から地価暴騰が生じ、
卸売物価や消費者物価が上昇し、所得格差も広がります。
いわく「人口と産業の大都市集中は、繁栄する日本をつくりあげる原動力であった。
しかしこの巨大な流れは…地方から若者の姿が消え…年寄と重労働に苦しむ主婦を取り残す結果となった。
このような社会から民族百年を切りひらくエネルギ―は生まれない。
かくて私は、工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークをテコとして、人とカネとものの流れを大都市から地方に逆流させる”地方分散”を推進することにした」
また「所得の拡大は一日の行動半径に比例する」
「大型タンカーの活用によって日本は世界最大の油田をもつのと同じ」
「新25万都市…インダストリアル・パーク」「創意と努力さえあればだれでもひとかどの人物になれる日本」
など、今読んでも魅力や説得力あるビジョンを示しました。
石油危機から年率4割超の狂乱物価の通貨インフレを招き、
結果、福田赳夫蔵相のもと財政緊縮、金融引締めに転じ、
49年度は戦後初のマイナス成長に陥ります。
こうした石油危機から安定成長の過程は、じつは意外にも古典的な資本主義のルールに導かれており、
政治や官庁主導というよりも、企業や家計、地域が草の根レベルで敏活に反応したことが、決定的に重要でした。
いやむしろ公共部門拡大への依存は、かえって危機を招き、その見通しは誰であれ容易ではなかったといえます。
現今にいうところの、自由と民主主義の価値観を共有するアジア太平洋圏の形成の前兆が見えた時代でした。
加えて、貿易自由化、変動相場、石油危機をへて、日本の自動車、家電、製作機械などの生産は世界の首位に迫り、
いわば普遍的な価値観や自由主義の原則に従って、日本的慣行や制度、行動様式は、その実力や真価を発揮していました。
自由とは「意識の領域を拡大すること」(G・オーウェル)であり、
現今のような人口減少ながらも多様性が求められ、過剰な公的債務ながらも巨大な金融資産を保有する状況では、
高い所得中心というよりは、むしろ物価や通貨の安定のもと、普遍性や価値観の共有の面で世界的な役割を果たすことから、
新たな革新や成長を見いだす時代となる、と考えられるのではないでしょうか。