doi_iku’s blog

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東京では「思いやりが日常の詩」

歴史のことば劇場45


この夏、マスコミが五輪批判を繰り返すなかで、外国人記者らが東京を絶賛する報道が目につきました。

彼らの述べた、東京の「多様性」「思いやり」「個人に優しい」との表現は、

近時というより、過去からつづく東京のイメージのように思えます。

例えば、昭和60年に邦訳されたF・ポンス(元ル・モンド記者)らによる『不思議、TOKYO。』(田中千春 訳)には

「多様性は東京の特徴の一つ」と記されています。

ポンスによれば、西欧のように中心が一つしかないと考えるならば、東京には中心はない。ロラン・バルトのいう「空」の中心・皇居の周辺も、街がとぐろを巻く中心軸のようで、

大手町、丸ノ内霞ヶ関も、それだけでは都心になり得ない。

新宿、池袋、渋谷なども、独特の容貌があり、都心と呼ばれるのに必要な条件を持つ。

建築の不統一は、家屋の耐久性と深く関わり、石の建築はいわば不滅であるが、

日本家屋はもろく、はかない。

昔、天皇が亡くなると都を移転したように、都市は儚く、永遠のものではない。

たえず立て直され、完成されず、未来へと前進しつづける…。

また個人に対してこれほど中立的な都市はない。

東京では個人の衝動と都市の機能との間の不一致はほとんどなく、時間は多元的に動いている。

「合理的というよりも有機的、統合よりも分散」の特徴をもち、

「東京は空想と可能性の世界である」とまとめます。

A・ジュフロワ(仏大使館文化参事官)は、「東京では、思いやりが日常の詩のひとつだ」と述べます。

東京にいると、フランス人がフランス人でなくなる。

トラックが細く曲がりくねった道に入っても、誰もクラクションを鳴らして歩行者を道端におしつけたりしない。

パリなら罵詈雑言の言い争いになるのを、今は静かに話していることに気づく。

意見の異なる相手にも「違う」といえず、「お互い様」であり、

意見や思想など、あたかも無意味で、さて自分に特別な考えなどあったか、と自問するようになる。

社会学者ジウグラリスは、

滞日中のある早朝、大家から、隣家の鶯の鳴く声のことを教えられます。

鶯の鳴き声で、別の家の鶏が鳴き、犬が吠え、鉄の扉を鳴らす。

その音に起こされたタクシーの運転手が慌ただしく街の中に走り出し、活気ある東京の一日が始まる……

と記します。

しかし「思いやりが日常の詩」でありながらも、東京には「極端にアナーキー」な面もあるようです。

大火事、地震、噴火、爆撃などで幾度も壊滅的打撃を受けたが、そのつど不死鳥のごとくよみがえった。

  つい先日も、震度5強の揺れに襲われても、移住や転職の嵐もなく、土地の投げ売りや暴落もなかった。
 P・ボパムという英国ジャーナリストの別の著書(『東京の肖像』高橋和之 訳)によれば、
 東京人は危険に鈍感であるどころか、
むしろ鋭くそれを感じ取ることで、
生活にリズムや張りを見出している
と言います。
あたかも災害を事前に知っているがために「精神を驚くほど集中する」ことができ、
被害や困難をも乗り越え、将来の可能性をつねに見出す精神が、
「思いやりの日常の詩」のなかで日々培われているのではないでしょうか。