doi_iku’s blog

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宮中歌会始ー現代の勅撰集


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▼王朝和歌がつくった日本文化


 和歌は、「王朝和歌」との言葉もあるように、

そもそも宮廷のものであり、

古今集』の仮名序には、

日本の神話の天地開闢

イザナギイザナミの皇祖神の言葉のなかに

和歌の原型がある

と記されています。

古今集をはじめ勅撰和歌集は、

明治維新以前は、

源氏物語枕草子などよりも

大切に扱われていました。


文化的にいえば、

日本人は、王朝和歌に学ぶことで、

恋や季節感、感じ方、

鑑賞の仕方までが

定まっていた

丸谷才一ら『見わたせば柳さくら』)

要するに、

日本人の感受性は、

王朝和歌によって、

その大枠がつくられた一面がある

と考えられます。


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今上天皇は、

毎年の正月に皇居行われる

歌会始講書始(こうしょはじめ)(ご進講)は極めて大事」

と仰っています(菊葉文化協会『宮中歌会始』)。

現在の研究では、

歌会始は、室町後期の後柏原天皇の歌御会始(一五〇三年)によって定着し、

今のような

宮中への貴人以外の一般人からの詠進(えいしん)は、

明治維新後の明治七年(一八七四)になって始まった

と記されています。

このため、歌会始は、

明治期になって「創られた伝統」(ホブズボーム)であり、

短歌を通して日本人を

「国民化し、臣民化する」役割を果たした

と批判的に見なす研究もあります(村井紀ら『日本人と短歌Ⅵ』)

 

けれども、

同年の『明治天皇紀』によれば、

「従来御歌会始に詠進する者あれば、一般国民の歌と雖も採録して叡覧に供するを例とす」

とあります。

つまり、

宮中への一般からの詠進や叡覧は、

近代や明治維新によって始まったものではなく

「従来」からの例式を引き継ぐものでした。

また、新聞紙上に、

歌会始の御製から一般の選歌まで発表され始めるのは

明治十五年からであり、

一方、

いわゆる新聞歌壇に選歌欄が設けられるのは、

正岡子規が同三三年に

新聞『日本』で開始してから広まったものです。

要するに、

一般参加や国民参加としての歌会始は、

必ずしも近代の産物とはいえず、

新聞歌段などの近代ジャーナリズムのあり方に比べれば、

その先進性は際立っていた

といえます。

また、

毎年一万数千首を超える歌が

全て天皇の御覧に供されるのは、古来、

万葉集の東歌(あずまうた)や

勅撰集の「読人しらず」として

庶民からも選歌される伝統、

あるいは、

「貴賤と云ひ聖凡と云ひ、和歌を以て情を通ぜざるなし」(前参議教長卿集)とされる、

身分階層を問わず、

人智や人力を超え、

世俗の秩序をも超えるとされた、

古来の「歌徳の原理」(小川豊生ら『和歌をひらく一』)

を発展的に継承したもの

と考えられます。



さらに

そこには、古くから

「仏と云ひ神と云ひ、

和歌を以て情を通ぜざるなし」

古今和歌集教長註)とされるような、

神仏の境界を越え、

神仏の心にも通じるような、

神秘的な共感の思想が、

和歌に備わっていると

考えられてきたことも

影響していたと考えられます。


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つまり、

古来の歴史伝統の積み重ねが、

歌会始の際立った先進性や平等性を

もたらしていたといえるのですが、 

もともと古今集は、

万葉集にも採録されなかった

古い在来の歌を取り入れており、

平安初期における

和歌よりも唐風の漢詩が重んじられた「国風暗黒時代」をへることで、

新時代の詩風賛美の成果を

在来の歌に加味し、

新たな表現を見出すことで成立した

勅撰和歌集でした新日本古典文学大系5解説)

こうした

時代の変化を受容しながらも、

原初の伝統を新たに発展させていった

という意味では、

歌会始はまさに「現代の勅撰集」である

といえます。

また、近年の研究によれば、

天皇主催で行われ、

詠進された歌の中から秀歌を選者が選び、

披講(ひこう)即ち広く公表するシステムは、

勅撰集と同じ」

と見る見解も現れています(谷知子『天皇たちの和歌』)。


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歌会始の「披講」では、

「としのはじめに――イ」など一句ずつを区切って

独特の発声で詠み上げ、

最後の母音はぐっと引っ張って、

伸ばし終ったところで、もう一息吐く。

これは歌会始などの祝儀の発声法で、

不祝儀(凶事)のときは息を飲む。

それでしめやかな印象が出るといい、

講師(こうじ)によるそうした発声法は

一対一の口伝で継承されました(坊城後周ら『和歌を歌う』)。

和歌とは、本来的には、

文字で読むというよりも、

声を聴くものであり、

宴席などの共同の場で披露され、

皆で同じ歌を聴いて、

全身で感じて、唱和する

共同体の文学であったと考えられます。

それは、近代文学のような

個人の感情や思想を訴える表現と異なり、

宮廷を中心とする場の文化とともに、

他者との交感や共感の世界を身心に受け入れるものでした。

現代の歌会始とは、

こうした古来の和歌の持つ独特の身体性、

他者との間で成り立つ共同性を引き継ぎながらも、

近代的な国民参加の先進性を持っており、

身分階層の違いのみならず宗教や思想の違いを超えて、

共感する「歌徳の世界」の形成することに成功しているのではないかと考えられます。


▼自他を超える「歌徳」「伝統の力」


明治以来、歌会始では、

満州や朝鮮から届いた歌も選ばれますが、

そうした外地からの和歌について、「(日本)帝国の版図拡大に伴う臣民の産出」であると、

あたかも植民地や戦争を支える文学的な仕掛けであった

かのように見る研究もあります(『日本人と短歌Ⅵ』)

けれども、実際の歌は、


奉天第六師団第一野戦病院詰陸軍看護卒  林清房 

家にある父は今年も谷川のなかれを汲みて年むかふらむ

(明治三九年「新年河(しんねんのかわ)」)


   朝鮮全羅道  許焱

雪深きくたらの野辺に咲く梅もへたてす照らす冬の夜の月

(同四四年「月照梅花(かんげつばいかをてらす)」)

などと、

谷川の水をくむ父親、新年を迎える心、

雪に咲く梅、冬の月といった、

懐かしい日本の思い出や自然を、

かの地においても見出した歌が多くみられます。

また、満州にいた日本人の家々には、

必ず百人一首と歳時記(さいじき)(季語の順に俳句の例や解説を載せる書)があったともいわれ(前掲丸谷)、

戦後になっても、


異国(とつくに)の林かなしも落葉ふめばかすかにきこゆふるさとの音

アメリカ合衆国カルフォルニア州、井上通政。昭和二九年「林」)


木の間がくれ湧く真清水に月光のすがしきさまはこの国に見ず

イリノイ州、松本登美子。同三十年「泉」)

と、落葉の音、木々の間、

湧く清水といった、

古来の和歌に出て来るような

懐かしい情景を表現することで、

郷土への思いを確かめるかのように歌っています。

「和歌は我国の風俗なり」賀陽院(かやのいん)水閣歌合)

との平安後期の表現は、一般的には、

古代律令制の崩壊や社会の変容を受けて、

統治可能な全域(日本)を超え、

地方諸国の風俗の多様性や差異性をも超えた、

「高次の和俗」の表明であったと考えられますが(小川ら『講座平安文学論究17』他)、

その古代末期から中世に生まれる「高次の風俗」は、

近現代における外地からの歌にも引き継がれており、

王朝文化の古典的世界につながる文化的な帰属感や季節感、

本土への一体感が、

近現代の外地の人々の生活心情をも支えていた

ことがわかると思います。


あけぼのの大地しつかと踏みしめて遠く我は呼ぶ祖国よ起(た)てと

(ロサンゼルス市、高柳勝平。昭和二二年「あけぼの」)


太平洋の彼方より、

戦いに破れた祖国に呼びかけるこの歌は、

選者の斎藤茂吉

「この歌は自分が『命にかえて』取った歌」

として入選を強く願った歌でした(『宮中歌会始』)

敗戦をへて、

なお続く日本人の一体感、

同一性、復興への願い。

昭和天皇

これを次のように歌われました(昭和六二年「木」)


わが国のたちなほり来し年々にあけぼのすぎの木はのびにけり


あけぼのすぎは、

昭和二五年に渡来したメタセコイアの和名で、

戦後の復興はもちろんのこと、

復員や引揚の労苦にも負けない

国民精神を象徴する表現であるだけでなく、

茂吉による選歌の

「あけぼの」という表現にも通じており、

天皇の御製の

「わが国のたちなほり」は、

選歌にある「祖国よ起て」とも呼応するかのようで、

これらには、

古今集の仮名序にいうところの

「君も人も身を合はせたり」

との一体性を想起されるものがあります。

日本人は、

和歌という「長くつづいて来た伝統の力」を吸収し、

「自分を通して表現」してきたのであり(前掲丸谷)、

昭和天皇は、

こうした王朝和歌の持つ「伝統の力」や「歌徳」を受け止め、

国民とともに「自分を通して表現」することで、

戦後においても、

時代や自他の違いを超える「高次」の政治性や統合性を

「共感する世界」として実現化されていた

と考えられるようです。


近年の哲学者の指摘によれば、

自分ではない、

他者の声をじっくり聞くということは、

「自―他、内―外、能動―受動という区別を超えた

相互浸透的な場に触れる経験」であり、

介護のケアの現場では、

いわゆる「聴き取り」とは、

相手と呼吸を合わせることから始まる

といわれます鷲田清一『「聴く」ことの力』)

フランスの哲学者ロランバルトは、

「《私のいうことを聞いてください》というのは、

《私に触れてください、私の存在することを知ってください》

ということだ」

と述べました(『第三の意味』)

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古来、

天皇が国家を統治することを

「聞し召す」

と日本語で表現します。

それはまさに「聞く」の尊敬語なのであり、

こうした意味において、

天皇は、歌会始などの和歌を聞くことを通して、

癒し切れない、人々の痛みや苦しみ、

思いを「聴き取って」いたのであり、

国民との間で「呼吸を合わせ」、

「触れて」、

その「存在を知って」きた

と考えてよいようです。

これら他者の思いを

「聴き取り」、「呼吸を合わせ」、

「触れて」、

「その存在を知る」ことこそが、

本来の和歌の持つ

「伝統の力」であり「歌徳」の力でした。

その伝統を如実に引き継ぐのが

まさに歌会始であり、

「自―他、内―外、能動―受動という区別を超えた相互浸透的な場に触れる経験」を、

日本人のなかに、

歴史的に、文化的に、

築きあげてきた、

と考えられるのではないでしょうか。

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