▼王朝和歌がつくった日本文化
和歌は、「王朝和歌」との言葉もあるように、
そもそも宮廷のものであり、
『古今集』の仮名序には、
つまり、文化的にいえば、
日本人は、王朝和歌に学ぶことで、
恋や季節感、感じ方、様式、鑑賞の仕方までが
定まっていました(丸谷才一ら『見わたせば柳さくら』)。
日本人の感受性は、宮廷和歌によって、その大枠がつくられた一面があると考えられます。
また、新聞紙上に、
歌会始の御製から一般の選歌まで発表され始めるのは明治十五年からであり、
その一方で、新聞歌壇に選歌欄が設けられるのは、
正岡子規が同三三年に新聞『日本』で開始して広まったものです。
要するに、一般参加や国民参加としての歌会始の先進性は際立っていました。
また、毎年一万数千首を超える歌が全て天皇の御覧に供されるのは、
古来、万葉集の東歌(あずまうた)や勅撰集の「読人しらず」として庶民からも選歌される伝統、
あるいは、「貴賤と云ひ聖凡と云ひ、和歌を以て情を通ぜざるなし」(前参議教長卿集)とする身分階層を問わない、
人智や人力を超え、世俗の秩序を超えるとされた、
古来の「歌徳の原理」(小川豊生ら『和歌をひらく一』)を発展的に継承したものと推測されます。
歌会始の「披講」では、
「としのはじめに――イ」など
一句ずつを区切って独特の発声で詠み上げ、
最後の母音はぐっと引っ張って、
伸ばし終ったところで、もう一息吐く。
これは歌会始などの祝儀の発声法で、
不祝儀(凶事)のときは息を飲む。
それでしめやかな印象が出るといい、
講師(こうじ)によるそうした発声法は
一対一の口伝で継承されました(坊城後周ら『和歌を歌う』)。