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《疑義》の終わり、《対話》というポリフォニー(多声性)の現代


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歴史のことば劇場⑫


▼《疑義》の終わりと《対話》による多声性(ポリフォニー)の現代

 

 かつて、大嘗祭への公費支出に疑義が出ていると宮内庁長官らに伝えた、秋篠宮殿下のご発言が、注目を集めたことがありました。

もしかすると、公費としない方が政教分離に拘泥せず、古式ゆかしい神事として十全に行えるのかもしれません。

けれども、神道色や天皇の政治的行為、憲法上の疑義は一切あってはならないとなると、

神話伝承に始まる神器はどうなるでしょうか。

現在は、皇室経済法第7条にいう皇位とともに伝わるべき由緒ある物」との扱いとされますが、

しかし、御代始めの「剣璽等承継の儀」は、歴史上の譲位では

天皇宣命(せんみょう)に従った神器渡御として行われ、

大嘗祭でも鏡剣奉上は行われました。

そもそも

国事行為以外の天皇の公的行為の一切を疑問視し、全否定する違憲論は、

八月革命説で有名な宮沢俊義その主唱者の一人でした。

しかし近年では「国事行為以外の公的行為を合憲化する説が有力で…国事行為を限定した意義は薄れている」(横田耕一「国事行為」『現代法律百科大辞典3』)

とされる通り、

今ではむしろ宮沢らの違憲論の方に疑義が出る状況となっています。

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考えてみれば、

鏡、剣、勾玉は、

わが国の古墳の出土副葬品に、ほとんど共通して現れ、

古代史の研究者の多くは、

巨大古墳の創始とされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)を卑弥呼の墓と見て、

古代国家は「前方後円墳体制」(都出比呂志)とともに成立したと考えます。

三種の神器は、前方後円墳ばかりでなく、いわば国家誕生の象徴であり、

さらに言えば、

中世においては神皇正統記にあるように、

正直、智恵、慈悲という道徳規範の本源であり、

日・月・星に相当すると考えられていました。

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敗戦直前の昭和20年7月末、

昭和天皇は「万一の場合は…神器と共に運命を共にする外ない」(木戸幸一日記)との悲壮な決意を示され、

戦後も、共産革命に抗するため占領体制に協力し、

米軍の駐留もあえて希望されました。

これを国民の生命よりも神器を重んじ

GHQに迎合したなどと批判する向きもあるようですが、

しかしながら、

神器に象徴される皇室の存続は

「国家が永遠に生きのび、国民が新しい時代へ続いていくことと不可分だった……国内外の困難な状況に向き合い…あらゆる手段を講じて国家の理想を実現しようとする、したたかな外交家の姿」(苅部直)をそこに見ることもできます。

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神話、そして国家誕生、

中世的な道徳規範や世界観、宇宙観、

国家の永遠性、

さらには昭和天皇による「理想実現」の決意など、

これら神器の持っている

じつに多様な歴史的な意義や価値観が、八月革命説などの近代主権論から正しく理解できるとは

到底思えません。

それは、

肯定か、さもなくば否定か、

適合か、それとも疑義か、

あるいは「天皇主権」か「国民主権」か、

あまりに単一的で、二者択一的を強いるものであり、

それらはミハイル・バフチンの有名な理論に従うならば、

啓蒙主義者や合理主義者に特徴的な《モノローグ(単声法)》の思想である

と言えるでしょう。

彼らは、まるで世を意のままに、

統一的、画一的に操れると考えている。

けれども、そうした近代的な啓蒙主義とは異なり、

現代のドストエフスキーの小説世界には、

相異なる思想同士による《ポリフォニー(多声法)》の「対話」が実現されている、

その形式上の起源は、

古代中世の民衆的な《カーニバル》文学にまで、

たどりつくといいます。

はたして、

神器や大嘗祭への理解が、

西欧近代の単一的な《モノローグ》原理に従うのか、

それとも、

思想的対立・矛盾を超える対話性や民衆性、

古代中世から現代、将来へと向かう、

ポリフォニーの《永遠の形式》に拠るべきなのかは、

御代始めにあたり、

現代日本人にとっては

もはや自明な事柄ではないでしょうか。

また、

そうであるならば、

秋篠宮殿下が宮内庁に対してお求めなったことも、

じつは、疑義や否定などの

二者択一的で、《モノローグ》的な

近代思想に典型的な単一性や画一性ではなく、

「対話」という《ボリフォニー》の世界へと導くための指摘である、

聞く耳を持たない」と宮内庁を批判されたのは、

現代がもはや単一性や二者択一的な原理などではなく、

むしろ複数の思想が渾然としながらも新たな秩序を生み出すような、

多声性《ポリフォニー》の時代と見るべきこと、

すなわち、本当は《疑義》の主張というより、《対話》の必要性を訴えたのではないか。

かつて昭和天皇は「共産党もまた国民だ」と発言されたと言いますから、

皇室の方々の見識や度量には、

二項対立的な通常の思考レベルとは次元の異なる高度な平等性や普遍性があると考えられ、

またそれは意外にも

現代思想や現代哲学が見出だしている境地にも通じるところがある

と考えられるように思います。

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