doi_iku’s blog

LINEブログから引っ越しました。

譲位とは男系継承の儀礼化

KIMG0681.JPG

新しい国史への招待48

▼最上位の法としての宣命

 皇位継承皇嗣の選定には、古来、どのような原則や考え方があったのでしょうか。
研究史によれば、
大化改新以前では、
天皇が任意に選定したとする選定説(中田薫)、
天皇が神意によって卜定(ぼくじょう)したとする説(瀧川政次郎)、
大兄(おおえ)(同腹中の長子)から兄弟、大兄の子に継承されたとする大兄継承説(井上光貞)
などが唱えられました。
天智天皇が定めたという
不改常典(あらためまじきつねののり)は、
男系の嫡子相続を定めたとされますが、
具体的な内容は不明です。

しかし
その後の実例を見れば、
嫡系男子の優位を認めながらも、天皇(又は上皇)の勅定(ちょくじょう)するところであり、
立太子の詔(みことのり)によって冊立するのを本則とした
ことは明らかです
(橋本義彦「皇位継承」日本史大事典3)。
たしかに律令制では
「女帝」が公認され、
奈良期以前は断定できない面も残りますが、江戸期の後桜町天皇まで
「中継ぎ的色彩が濃く…皇男子の継承が本則であった」(同)
とする通説ないし歴史的な認識は、
現在でも大局では動かないだろうと思われます。
そして
この「嫡系男子の優位を認めながらも、天皇が勅定する」との原則を、
実際の王朝儀礼として「儀礼化」していたのが、
平安時代の譲位儀でした。
儀式書によれば、
譲位宣命(せんみょう)によって皇太子は「新帝」に昇位されますが、
父子継承に非ざる兄弟継承などの場合は、
新帝は上表(じょうひょう)を旧帝に奉ることで、
皇位を一旦辞譲する儀が用意されました。
父子継承や幼主への皇位継承の場合は、
この上表は行われません。

また譲位では、
神器渡御よりも前に、
宣命が出た瞬間に「新帝」が誕生しますが、
これは律令制の最上位の法が
「明神(あきつみかみ)と御宇(あめのしたしろしめす)日本の天皇(すめらが)が詔旨(おおみこと)らまと云々、咸聞(ことごとくききたまへ)」(公式令(くしきりょう))
とある「宣(の)る」との
口頭命令にあったことに関連します。

法(令や式など多くの漢字も同じ)にあたる日本語は
「のり」しかなく、
「のり」は天皇の本質にも関わり(大津透『律令制とはなにか』)、
朝廷に列集する官人等に向けて、
または地方や全国に伝達するために、
宣命は最上位の法としての「みこと(=天皇の言葉)のり」として読み上げられました。
こうした宣命による
先帝譲位、
上表などを介しての新帝受禅(じゅぜん)とは、
嫡系男子の優位を認めながらも、天皇が勅定する」
という原則を、
まさに現実に儀礼化したものと考えられます。

北畠親房神皇正統記で述べたように、
皇位の「正統(しょうとう)」「まさしき御ゆづり」とは、
父子一系の相承のことを指しました。
「すえの世にはまさしき御ゆづりならでは、たもたせ給ふまじき」ともあるように、
歴代の王朝儀礼には
嫡系男子の優位を認め、
最上位の法によって勅定する」という男系継承の正統意識を、
より厳格化する儀礼的な構造があったといえます。
KIMG0632.JPG
▼歴史的慣行の持続

 じっさい、宣命を中核とする王朝儀礼には、
①賜禄(しろく)・宴(節会、御斎会(ごさいえ)、季禄等)
②叙位(大嘗会、成選(じょうせん)位記等)
➂任官(大臣、摂関、僧綱(そうごう)、郡司、出雲・紀伊国造
④身分の変更(譲位、即位、立后立太子、将軍節刀、弔喪)等
がありました(古瀬奈津子ら『岩波講座日本通史4』)。

皇位継承を頂点にして、
位階・任官のみならず、中国由来の儀礼、民間行事、軍事、仏教儀礼まで、
じつに多種多様で、
身分や地域を超えて列島社会を縦断するような、
あらゆる儀式的な秩序が、
宣命という身体的で、
人格的、呪術的な音声命令のもと、
同一の政治的空間に共存し、
統合化されていました。

平安期の『貞観格(きゃく)』の序には
「君(天皇)、百姓(ひゃくせい)と之(これ)(法令)を共(とも)にす。君、之を上に失ふべからず。臣、之を下に違(たが)ふべからず」とあります。
中国の律令法では
「非常の断、人主(じんしゅ)これを専らにす」とあり、
皇帝は独断するのであり、
法に従属するような存在ではなかった(名例(みょうれい)律の疏)。
しかし日本では、
この条文を受容しながらも、
既に憲法十七条の最終条には
「事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし」とあるように
専断を否定しており、
平安期には
「公民」と法を共にすると定めていました。

天皇は基本的には律令法を超える存在とされながらも、
その存在的な本質は律令制よりも古く(大津)、
中華皇帝とは違って
古来の「法」に拘束されました。
そうした官人や公民と共に
君主もまた従う「法」の秩序、
あるいは
外来文化・思想が共存する社会の多様性とは、
じつに古来の宣命という
天皇の言葉をそのままのかたちで拝聴できる手段」
天皇の生の言葉」(春名宏昭ら『文字と古代文化5』)に従って
もたらされた面があります。

明治期の井上毅は、
日本国家形成の原理を、
西欧流の社会契約ではなく「君徳」の伝統に求めました。
この井上の論理に従えば、
国民の持つ広範な共通利益は、
極限状況におけるバラバラな自然状態などからではなく、
より一般的で普遍的な
伝統的秩序から生まれた
と考えられます。
敗戦後、
法学者の尾高朝雄も、
自然法もまた歴史的存在でしかなく、
帝国憲法であれ、
憲法であれ、
同一のノモス(社会道徳や秩序)の制約を受け、
ノモスの主権を承認したものに他ならないと説きました。

言うまでもなく、
尾高のノモス主権論こそが、
宮澤俊義を始めとする「八月革命説」との憲法学の通説を批判する
最も有力な学説です。
それは、
そして伝統的な天皇像をつないで見せたのであり、
いわば「革命」や「断絶」ではなく、
連続的な「法の支配」に通じる
日本国憲法成立の理論であることは、
言うまでもないと思います。
また、
こうした井上や尾高の論理や彼らの指向性に従えば、
現代にまで通じる
「法の支配」の平等性、多様性の共存は、
日本では歴史的な起源を持つ「ノモス、法」に由来しており、
それらとは異なる
抽象的で、人為的、人工的な社会契約などから来るとは
考え難いといえます。
ハイエクによれば、
伝統的な慣行とは、
知的な力を有するからではなく、
個人の無知や人為を超えた文化的遺産、
暗黙知による「自生的秩序」が、
より大きな人間関係の成長をもたらしたことから
尊重されてきたのである(全集Ⅰ-8)
と論じました。
それゆえ、
譲位や宣命の持つ歴史性を否定し、軽視することは、
自生的秩序や暗黙知による社会の発展の
あからさまな否定や軽視につながります。
むしろ宣命によって
天皇の言葉を伝達し、拝聴する」といった最高法の歴史性を尊重することこそが、
皇位の男系継承はもとより、
法の支配、多様性の共存、
憲法の国民統合にまで通じる、
「正義や社会的結合の基礎となる遺産」の一体的で、
連続的な継承につながる
と見るべきではないでしょうか。
KIMG0640.JPG
KIMG0600.JPG
KIMG0599.JPG
KIMG0584.JPG
IMG_6rvry7.jpgKIMG0654.JPGKIMG0137.JPGKIMG0641.JPG
KIMG0642.JPGKIMG0685.JPGDSC_0083.JPG