新しい国史への招待47
▼危機から生じた保守的自由主義の系譜
近時、四十数年ぶりに
中村隆英(たかふさ)(東大名誉教授・故人)の『日本の統制経済』が文庫で復刊されました。
なんで今ごろ?
統制待望論がどこかで流行ってるの?
と怪訝な気分になりますが、
同書には、昭和十四年、
朝日新聞記者・笠(りゅう)信太郎の『日本経済の再編成』がベストセラーとなった話なども出てきます。
当時は
経済新体制と称して、
「資本主義の自由経済的側面を排除する…生産を純粋な形で行う」
といった
社会主義経済の実現が、
構想されていました。
こうした急進的な経済論議には
当然反発が出ますが、
なかでも
経済学者山本勝市(かついち)の論文に関して、
中村は
「これは山本の創作によるものではなく、バローネとかランゲとか…の理論に立つものである」
と述べています。
これは明白な誤りです。
山本による笠批判や官僚批判は、
社会主義や計画経済は非合理的で非人間的であり、
必ず破綻すると予見した
いわゆる社会主義経済論争の成果にしたがったものです。
その反対に、
バローネやランゲは、計画経済は実現可能だと論じました。
こうした中村氏の著作にある
社会主義経済論争への明らかな誤解は、四十数年後の今も未だに訂正されず、
そのまま再刊されています。
いかに歴史家や経済史家が経済思想に無知であるか
よくわかる事例ですが、
また当時の
統制経済の迷走を示す例としては、
日米開戦前の石油需給の見通しが有名です。
ある陸軍担当者の証言によれば
昭和十六年十月の
最後の御前会議に出された数値は
「恐ろしいことに…
十三年三月から数ヵ月間に私どもがまるで算術のような方法で編み出した南方石油取得見込みの数字が…何のチェックもされることなく…そのまま使われた」(高橋健夫『油断の幻影』)
といわれます。
要するに
統制経済における経済計画の不確かな数値は、シナ事変の以前から、
戦争遂行に多大な影響を与えていた。
そして
山本勝市によれば、
支那事変の長期化や紛争の原因は、
統制計画経済、とくに
計画の数値予想のデタラメによる影響が大きかった。
いわゆる統制経済における
物資動員計画とは、
山本によれば一度も計画通りにはならなかった。じっさい
昭和十年頃から着手され、
十三年度に始まる生産力拡充計画では、
十六年末には
日満支で鉄鋼、石炭、軽金属のほか鉄道、自動車、船まで自給自足できるはずであった。
しかし昭和十四年度は
早くも動員計画通りにはならなかった。
それを物価委員会の高橋亀吉(経済評論家)らは
計画の不正確が混乱の原因と言っているが、
しかし山本によれば
高橋のように当局の責任と難ずるのは全くの誤りである、
むしろ計画経済は
経済計算論争が示すように実現が不可能なのであり、
動員計画はそもそも
社会主義経済体制であり
デタラメに陥ること自体を反省すべきだ。
それに影響せらるゝ国民の力点移動の現象である。
彼らは物価安定…等々の耳裡に入り易き問題の解決に名をかりて、
実は聖戦貫遂を阻塞(そそく)して、経済組織の根本変革を誘導利用せんとして居るのであるが、
意識的に社会変革を意図せざる真面目な人々も、
事変の長引くにつれて…現象を追ふて進むの結果、根本目標を忘れて力を末節に傾注する…」
(山本「経済政治の当路者に寄す」『経済情報・産業扁』15年6月)
このように
山本により、当初から
シナ事変を利用した社会主義革命の進行が真剣に警告されており、
当時を次のように回想しています。
革新派の思想の中に「生きていた」、
「日本を戦争の断崖まで曳(ひ)きずった勢力が果たして何であったか…
その力と不可分に結び着いていたものは…現状維持に対する革新派であり…
いずれがよりマルクシズムに親しみを持っていたかといえば、それは明らかに後者であった」(全集10「私と社会主義」)
▼反全体主義と集団防衛
二十年二月、
(「我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速に進行しつつあり」)
とも、共通する認識を示しています。
そしてわ思想的、理念的に見れば、
こうした戦中の反統制、反計画、
戦後の日米同盟へと帰結していきま
ます。
というのも、
同年四月、ハイエク『隷従への道』は全米で注目されており、
また、ソ連封じ込めやマーシャルプランの担当者G・ケナンによれば、
当時と米国財務省による対ソ支援の「純情、執念深い…夢」も、
のちにケナンは
マッカーサーによる対日講和案もきびしく批判し(二二年八月)、
国務省政策企画室のメモには
「米国の中心的な目的は、太平洋経済に統合され…信頼しうる同盟国となりうる安定した日本を実現することにある…
とありました(坂元一哉『日米同盟の絆』)。
明らかにケナンの構想から来るものであり、
また戦後の日米同盟による東アジアの安全保障とは、
ケナンと吉田との認識や構想の一致に始まることは明らかです。
じっさい吉田によれば、
「国防とは今日では一国を守るのではなく、
共産勢力に対して自由国家群が共同で自由、繁栄、文化を守る集団防衛(collective defense又はsecurity)を根本方針とするものである」
とされ、
そうした国際相依のもと
相互利益を増進する日米外交は、むしろ明治外交の基本方針につらなると考えられていました(北岡伸一『門戸開放政策と日本』)。
またケナンによれば、
いわゆる封じ込めとは
「一九四七年の(ソ連に対する)不安感や幻滅感」ではなく
「戦時下の勤務からの印象や、連合国の勝利の直後…ソ連と西側の関係の不安な将来を観察した努力などの間から生まれた見解であった」
「もしも戦時中にロシアに関する私の見解に注意が払われていたなら…(戦後の)多くの問題や当惑はかなり軽減されていたに違いない」
要するに、
歴史的に見て、日米同盟につながる認識とは、
戦後になってから生じたというより、
戦時の経験や困難の中からむしろ現れていたのであり、
上記のハイエク、山本、小泉、吉田、ケナンに共通する
反共=保守的自由主義は、
戦時期の反統制・反社会主義の系譜から出現していました。
それと同様に、
戦後の西側繁栄への道もまた、
戦時危機やその反省の中から生まれたのであり、
期せずして戦時下の日米双方において
保守的自由主義として同時的に出現していました。
そうした歴史認識こそが
それ以後の社会主義陣営に対する
西側諸国の優位的な繁栄や発展を
事前に用意していた
と考えられるようです。