doi_iku’s blog

LINEブログから引っ越しました。

麻薬と開国


KIMG0603.JPG
歴史のことば劇場⑯
▼最良の知性と自由社会をもたらす「大義
  
近頃の著名人の逮捕で、
麻薬犯罪への対処のあり方が議論されていますが、
歴史的に見れば、
幕末のアヘン戦争の頃でも、
日本と清(中国)では、
アヘンへの対応は全く違っていました。
林則徐らの奮闘もむなしく、
敗戦によりアヘン輸入が合法化された清に対して、
日本の開国条約には、
アヘン禁輸の一項があります。
それは、
安政元年のプチャーチンの条約案に
アヘン防止の一項があったのを(官吏駐箚と併記されたためか調印されず)、
同四年の日蘭追加条約で、
今度は幕府が、アヘン厳禁を条約案に盛り込み、
批准に至ったものです(維新史2)。
つまり、
日露の双方とも、
国際条約上におけるアヘン防止の重要性に気づき、
ロシアはその見返りに官吏常駐を求めたが、
幕府はその手には乗らず、
それより先にオランダと開国交渉を進めれば
英米との交渉が容易になると考えており(幕末外国関係文書17)、
じっさい、
後の五ヵ国条約にも
アヘン禁輸などを盛り込むことに成功しています。

幕府がいかに外交上手であったか、
非常によくわかる一例ですが、
そうした幕府以上に、
日本社会全体がさらに「文明的」であったことは
より重要と思われます。
というのも、
南京条約当時の
英国側通訳ギュツラフの報告書(1842)によれば、
日本はオランダや琉球を通して世界の情報を入手し、
外国語や科学発明に対する関心はきわめて高い、
「その精神が支配している限り、大衆の意思に反する政府の鎖国を撤回させることは、困難ではない」
また、戦争の顛末は
「江戸ではよく知られ」、
開港場は大坂と江戸、薩摩、仙台、加賀がよい、
日本人の発言は
「真意であり、合意に達した内容は守られる…日本へは蒸気船を一または二隻、先行させるとよい」ともあり、
直接の関連は不明ながら、
ペリーの黒船は後に現実に来航します(加藤祐三)。

林則徐から、
外国語を含む最新資料を託された
友人の魏源の『海国図志』は、
日本では競って出版され、
魏源の『聖武記』もよく読まれ、
アヘン戦争ばかりか
西欧植民地支配の危険性についても
精確な知識や共通の理解をもたらします。
また、同戦争を契機に
独学で蘭学を修めた佐久間象山は、
魏源を「真に海外の同志」(省愆録)と評しています。
西欧との戦いに敗れた林則徐らの無念や知性は、
幕末の日本社会では、
魏源の本を通して
「同志」の言葉として受け取られたといえます。

外国から自国を守るには、
「自由独立の気風を全国に充満せしめ…貴賎上下の別なく、其(その)国を自分の身の上に引受け」、その上で国民としての義務を果すしかない、
「是(これ)即(すなわ)ち報国の大義」であり、国のために財を失うのみならず、
一命を抛(なげう)って惜しむに足らず、
と言い切りました(学問のすゝめ)。

国家の独立と個人の自由は、
福沢のなかでは、
ひとつながりであり、
この決して娯楽書とはいえない書に、
当時の日本人の大半が何らかの形で接していたといわれます。
つまり、
知識人の福沢ばかりでなく、
一般の読者もまた
大義」を抱いた時代だったのであり、
福沢のいう有名な
「一身独立して一国独立す」のフレーズに集約される精神とは、
当事者としての自覚、
最良の知性とともに、
自由な社会へと進展しながらも
麻薬の蔓延などとは異なる次元の社会を
日本にもたらした
といえるようです。
要するに、
「個人の自由」は、
「国家の独立」の保持と相俟って
その健全性が守られた時代があったのであり、
開国をめぐる緊迫した時代精神こそが、
後世にいたる日本社会のあり方に、
多大な影響をあたえた
とかんがえられるのではないでしょうか。
KIMG0610.JPG
KIMG0609.JPG
KIMG0606.JPG
KIMG0629.JPG
KIMG0604.JPGKIMG0633.JPG
KIMG0635.JPGKIMG0605.JPG