doi_iku’s blog

LINEブログから引っ越しました。

我が終わりに我が始めあり……

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「私たちフランス人は、神を殺し、王を殺した…」

昭和天皇の御不例に際して、精神病理学者フィリップ・ガタリは、こう述べたといいます。

「そして皇帝を追放し、もう一人の皇帝をも倒した。

更には人民戦線の神を殺し、共産主義の神を殺し、実存主義の神をも殺した。

その結果、我々の国は、ご覧の通り解体の一途をたどっている…

それに引換え、

日本人はどうでしょう…

皇居前に集う心理を、個人の病理から説明はできない…

おそらく一つの祭儀なのです。

日本人にとってこの上なく深い意味を含んだ、厳粛な祭儀であるに違いない…

終焉が再生を喚(よ)び起す大切な祭儀―それに日本人は参加しつつ、

いま再生しようとしているのです」

江藤淳『言葉と沈黙』)

つまり、

ガタリによれば、

かつて王を殺し、神を殺して、国家の「解体」を迎えたとするフランスに対して、

日本では「解体」などではなく「再生と継続」の祭儀が厳粛に行われたといいます。

そして今、

この三十年後、もう一つの形式による「祭儀」が行われようとしていますが、

しかしながら、

周知のごとく「譲位」の語を廃してしまい、

憲法上、天皇の意志は認められないなどの理屈よって

「退位」の儀礼として行われようとしています。

しかし「憲法上、天皇の意思は認めない」などと主張する人々は、

先日の御在位三十年式典でのお言葉や、

先年の東日本大震災での異例のビデオメッセージでのお言葉などを見聞きしても、

それでもまだ

いぜん「譲位」ではなく「退位」であり「天皇の意思によるものではない」などと言うのでしょうか。

奇怪な思考と言うほかありませんが、

フランスの「神や王を殺した」のは、

トクヴィルによれば、

18世紀の知識人による啓蒙主義哲学であり、

彼らは一般的理論、完全な体系、法律の厳密な規則性を愛好した。

既成事実を蔑視し、部分的改善ではなく、制度全体を理性化しようとした。

しかしその「フランス人の理性は、新しい形態の隷従を創出したにすぎなかった」。

フランス革命は、この十八世紀の「文学的政治学」に知的起源があり、

そうした革命は人間の抽象的な「理性」によって新たな「隷従」を生むものでした。

どうやら近年の

ノートルダム寺院の炎上によって、

こうしたフランスにおける知識人中心の「文学的政治学」は、

ようやく終焉を迎えるようです。

同寺院再建に向けて

多額の寄付が続々と集まるというニュースを、

宗教や伝統をきびしく攻撃した

「文学的政治学」という知的で、政治的な面々は

一体どのように考えるのでしょうか。

いっぽう、

宮内庁参与の三谷太一郎氏(東大名誉教授・日本政治史)によれば、

2010年7月の参与会議で、天皇陛下が御自身の退位について初めて話されたそうで、

それには三谷氏は

「非常に大きな衝撃を受け…憲法が直面した最大の問題と考えた」とか。

また「政治家も学者もまったく予想しなかった」、

その後、「保守派もリベラルも(天皇の退位の意思表明に)否定的」であった、

天皇のお考えが全く理解できなかったといっています。

要するに、期せずして、

日仏両国において、

今回は「政治家も学者もまったく予想しなかった」、

「保守派もリベラルも否定的」であった事態が現実化し、

彼らの思惑に反して

彼らが軽視し、侮辱した

「再生と継続」の「祭儀」が厳粛に行われるようです。


「我が始めに我が終わりあり。我が終わりに我が始まりあり」(エリオット)


こういった「政治家も学者もまったく予想しなかった」、

「保守派もリベラルも否定的」な出来事からはじまる、

成の終わりと令和の新時代とは、

単に、いわゆる「近代」啓蒙主義とか「隷従への道」の時代の

本格的な終焉を意味するだけではないようです。

というのも

「政治家や学者」「保守派やリベラル」による一方的で、

あまりに一時的な理念とはまったく異なり、

天皇の意思による「譲位」と天皇の即位いった

いわば悠久の歴史伝統の流れにもとづいた「再生と継続」の祭儀へと我々を導くような

まさに新しい時代が、いま始まろうとしている、

と考えられるのではないでしょうか。

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