doi_iku’s blog

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「あまちゃん」ならぬ「海女さん」に歴史あり

「地元」と出会って、自分を取り戻す


平成25年度、NHKの朝ドラ「あまちゃん」は、最高視聴率が27%を超えていたそうで、

最近でも「朝ドラに革命おこしたヒロイン」の1位に選ばれていました。

たしかに、主人公の天野アキ(主演・能年玲奈)は、一風変わったキャラクターの設定でした。

朝ドラで定番の

「純朴で天真爛漫な少女が失敗しながらも元気に成長する物語」

といったパターンには、収まりきらないキャラクターや役柄のように見えました。

さえないJKだった主人公アキは、

元不良の母(小泉今日子)につれられ母の故郷の東北・北三陸にやってくる。するとそこで出会った「海女」の祖母の姿にすっかり感激し、

「海女になりたい」と言い出す。

東京では「地味で暗くて向上心も協調性も存在感も個性も華もないパッとしない子」であったのが、

祖母(宮本信子)にポーンと背中を押されて、海中に飛び込んだその日から、

アキはすっかり生まれ変わった。

それまでの「地味で暗くてパッとしない自分を、海の底に置いてきた」のです(ドラマのナレーション)。

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アキは、生まれも育ちも東京なのに、

岩手弁に強烈に訛(なま)ることで、感情をストレートに出すようになる。

つまり東京にはなかった地元」や「海女」や「方言」に、価値や力を見出し、

それを自分の身体に身に付けることで、

自分を取り戻し、

海の仲間とともに地元に溶け込み、立ち直っていく。

この「引きこもり女子高生」を一変させた「海女」という職業は、

じつは、日本の民俗学歴史学では、

昔から重要な研究対象の一つでした。

というのも、

女が荒海に挑むことで生計を立てる海女は、

世界では、日本と韓国済州島にしか存在しない職業です。

昭和期に来日したある外国人の目から見ると、

海女は、服を買う余裕もない貧民層に見えたともいわれますが(田辺悟『海女』)、

日本ではとりたてて特別な職業ではないけれど、

世界的に見れば、特筆すべき女性の生き方であり、暮らし方でした。

また、アキは、

海女に出会うことで自分を取り戻し、

地元では24年ぶりの新人海女として

周囲から温かく祝福されます。

そうしたドラマと同様に、

海女には、以下に見るように、

本人だけでなく、周囲までをも明るくする、

歴史的に見ても非常に不思議な力を持った職業でした。

多くの研究者は、そこに注目し、魅了されてきたようです。


▼「海の神」につながる皇室、海女


古く『魏志倭人伝(3世紀)を見ても、

わが国には「水士(あま)」が多くいたとあり、

魚やアワビをとるのを好み、深海でも浅瀬でも関係なく、みなで潜ってとっていた、とあります。

日本の天皇や皇室も、

海の神の血筋を引いています。

初代神武天皇の御母と御祖母は、海の神の娘であり、

また天照大御神も、イザナギ命が禊のとき左の目を水で洗うことで生まれた神でした。

この天照大御神の孫がニニギ命で、高天原から天降って日本の統治者となり(天孫降臨)、

ニニギ命の長男が海幸彦、三男が山幸彦となります。

山幸彦は、兄の海幸彦から借りた釣針をなくし、失われた針を求めて海中の神の宮殿に向かいます。

そこで出会った海神の娘トヨタマヒメと結婚し、生まれた御子がウガヤフキアエズ命です。

この命とトヨタマヒメの妹タマヨリヒメとの間に生まれた御子が、

後に九州から大和に東征することになる神武天皇となります。

したがって、日本の皇室は、

海の神から、血脈や神力などを、

二重、三重に受けていたといえます。

もちろん、

邪馬台国や神話の話が、

そのまま現代の「あまちゃん」に通じるわけではなく、

ドラマの舞台は、

岩手県久慈市小袖海岸をモデルとした「北三陸」という架空の漁港でした。

歴史的に見ると、

ここ小袖海岸で海女の漁が始まるのは、

明治末期の20世紀になってからでした(田辺悟『日本蜑人(あま)伝統の研究』)。

小袖海岸の海女漁は、

昭和48年の記録によると(『海女 中村由信写真集』)、

アワビの漁が11月、

5月・6月がワカメ、

7月から8月がウニ、

9月まではコンブをとっていました。

けれども、資源保護のため

解禁日は月に3、4回しかなく、

の解禁日の前日、

漁業組合から「翌朝はウニの口開け(解禁)です」との報せがあると、

海女たちは朝5時に集合し、

合図のサイレンとともに一斉に海に飛び込みます。

夏でも水温は16から17度。

2時間も潜れば、寒さで唇の色はなくなります。

それでも沖に上がって火を焚いて暖をとり、とったウニを一家でムキ身にして、

お昼ごろには組合に出荷します。

一日で一人あたり4キロものウニがとれたといいますから、

寒いとか冷たいとか文句はいっていられない。

中学を卒業したばかりの娘から、70歳のお婆さん海女まで、

2時間少々の時間に勝負をかける姿には、

当時の写真で見ても壮観なものがあります。


▼地域を明るくした「女天国」


昭和30年の記録では(瀬川清子『海女』)、

千葉の海女が自分の出産について語った次のような一節があります。

「一潜(ひともぐ)りして火にあたっているうち何だかお腹が痛み出したが、…大潮でよい風だったので、また入ったのです。

そうしたら、堪え切れんようになったので、急いで上って髪を洗って家に帰りました。そして夕方の五時に生んだのです。

十一日目で床から起きますが、二十日目にはもう潜っています。一月たてば誰でも潜ります。」

こうした例は、別に驚くような事例ではなく、

福岡県の鐘崎では、

「臨月でイソイリして(海に潜って)おって、イソからそのまま床に走りこんで子を産んだので、その子供にイソコと名付けましたじゃが、……子供をもって一週間目にはもうイソイリしておりました」。

とあります。

出産をまるで日常茶飯事のように

笑いと冗談まじりで語り、

産後一週間には早くも海に入る、

そうした強靭さや豪胆さ、冷静さが、

海女にはありました。

それに、海女の集落は

「女天国」とも呼ばれた地域でもありました。

石川県輪島の海士町(あままち)では、

女児の出産が特に喜ばれたという話などは象徴的です。

女子の生まれること自体が、

家の生業である潜水漁が受け継がれ、経済的な繁栄につながるからです。

また、男の嫁とりでも、

家柄はさておき、

嫁はまず実力本位ということが第一条件でした。

なぜなら、どんなに貧しい家でも、健康で、実力があれば、

嫁一代で家を建て直して、

村の富豪になることも可能だったからです。

こうした地域にあっては、

女性は、労働を苦労とは思っても、

けっして精神的な苦痛にはなりえなかったといいます。

また、女が家を豊かにする海女の村には、それなりの社会的性格が育ってきた。

その積み重ねが女達の日常生活の中に、

自由な雰囲気や発言権、平等性を培ったのではないか

と考えられています(田辺『日本蜑人伝統の研究』)。

また、海女のいる地域は、

厳しい仕事を営みながらも、例外なく明るい印象を受けたと、

民俗学者は語っています。

つまり、主婦が明るければ、

家の雰囲気もしぜんと明るくなり、

村全体も活気が満ちてくる。

たとえ冬に雪が2mも積もる僻地(へきち)であっても、

村に寒々とした暗さはなかったといいます。

どうやら、海女は、

日本の風土や自然と一体となった伝統的な暮らしや職業を守っており、

地元の中に深く分け入り、その価値を取り出し、

自分の家のみならず、地域全体を明るくしていました。

海女の生き方は、

地元に貴重な貢献をしていただけでなく、

く普通の日本女性の生き方や働き方をよく現しています。

あたかも

女性の活躍する社会の歴史を象徴するかのような存在であり、

朝ドラで取り上げて大成功したのも、

この海女の持つ歴史的な背景の与えた影響もあったのかもしれません。

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