▼国政よりも崇高な「国民統合」
君主とは、本来、
法と慣習に従うべき存在と言われます。
昨年(平成29年)、内閣法制局は、
退位特例法に関連して「憲法関係答弁集」を改訂し、
との見解を追記しました(11/3報道)。
また朝日新聞は、
と報じました(10/20)。
どうやら
いま行われているようです。
しかし、
本来、「象徴」の意味は
昭和二二年二月のマッカーサー三原則の第一には
同十二日、民政局の改憲案の説明では
「天皇制を修正し、儀礼的な元首とすることによって、国民主権のもとで立憲君主制を樹立する…
朕は国家なりということではなく、国の象徴となる。天皇は、国民の間の思想、希望、理念が融合して一体化するための核、あるいは尊敬の中心として存続はするが、太古からの邪悪な指導者によって国民を悪事に駆り立てるために利用されてきた、かの神秘的な権力は、永久に奪われる」
とあった。
つまり、儀礼的君主としての「象徴」とは、
明らかに元首であり、
国民の思想・希望・理念の一体化の核としての
立憲君主のことでした。
そして、旧憲法より修正・除去されたのは
「邪悪な指導者によって国民を悪事に駆り立てるために利用された…神秘的権力」の意味にすぎません。
また、条文執筆に参照されたというバジョット『英国憲政論』普及版(一九二八)のバルフォアの解説にも
じっさい
昭和二七年、
講和条約への賛否で世論が大きく揺れるなか、
天皇は国会開会式で
「国会の承認を経て…効力の発生を待つばかりとなったことは諸君とともに喜びに堪えません」
と仰せられ、これが天皇の政治関与として問題化しました。
しかし
憲法学者清宮四郎は、
お言葉は、
国事行為でもなく、私的行為でもない、
また、鵜飼信成(のぶしげ)は、
この鵜飼のいう
「憲法の文字だけでは決まらない」「実質的なもの」とは、
文言にのみ限定され、
国民の意思に反する憲法解釈への批判と考えられます。
▼歴史伝統と法の支配による国民統合へ
「立憲君主は道徳的警告者たる役目を果たすことが出来る」と述べており(全集16)、
最近の研究でも、
平成五年、今上天皇は
「長い歴史を通じて政治から離れた立場において、苦しみあるいは喜びに国民と心を一にし、国民の福祉と幸福を念ずるというのが日本の伝統的天皇の姿でした…
国政に関与せず、内閣の助言と承認により国事行為を行う、と規定しているのは、このような伝統に通じてのものであります」
と、現憲法の条文を国民への思念と不執政との古来の伝統の上に位置づけた。
また、被災地慰問、
官僚や政治家等との意見聴取の機会を増やし、
「形式よりも実質を重んじ務めを果たす」姿勢を示した(岩井克己)。
こうした、
国政の権能こそ持たないが
それを超える「象徴」としての国民統合の
歴史伝統的で、崇高な任務のあり方が、
現在の国民の強い共感を呼んでいることは、
昨年八月八日の「象徴としてのお務めについて」のお言葉に対しての
国民の圧倒的な反響の大きさからも窺えます。
その反対に、
「過去の譲位は参考にならない」「天皇の意思に基づく退位は…ふわさしいのか」云々は、
かつて宮沢を批判した尾高朝雄は、
ノモスは権力や国民に「力」ではなく「責任」を課すとして、
また、E・バークによれば、
先人の判断(ブレジャディス)(先んずる者による判断)や時効(プレスクリプション)(書き込み)といった、
来るべき代始儀礼は、
文言限定的で、
非歴史的な矮小化された憲法解釈ではなく、
むしろ
制度の実際の形成過程を重んじ、
議会であれ国民であれ、
誰もが服従すべき「法の支配」のノモスの論理に従って行うのが
道理ではないでしょうか。
また、これによって、
「重大な役割」を持つ儀礼とすべきではないでしょうか。