doi_iku’s blog

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宮本武蔵の「新しさ」と小林秀雄✏✒❇


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「小説が読まれれば読まれるほど、作家の創意と、
正伝の史実とが、
将来混交される惧(おそ)れがある」(吉川英治『随筆宮本武蔵』昭和十四年)

ベストセラー『宮本武蔵』は、作者自身が危惧するほど、史実とかけ離れた武蔵像を広めました。
このため、
吉川は『随筆―』を著して、
小説と異なる武蔵の実像を示そうとします。
しかし、
書誌学者・森銑三によれば、
この書もまた、非常に問題が多かった(著作集続12)。

幼名、弁之輔、長じて武蔵と称したというのは、
森によれば、武蔵坊弁慶を意識したもので、
吉川が言うような、幼名武蔵(たけぞう)というのはありえない。

また、生地も備前ではない。
吉川は、関ケ原大坂の陣で、西軍に加った、とも言っているが、
大坂陣で徳川方に付いたことは、すでに判っている。

本の口絵の「武蔵筆」という絵も、
「どこを叩いたら武蔵といふ音が出るか…ひどいもの」であり、
吉川には、
他者の新発見の功を記さない悪癖もあり、
かような「わざと明示しない行き方を小人的態度といふ」。
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森にかかれば、
吉川も散々ですが、
しかし、その森をもってしても、
武蔵の実像は、今一つはっきりしないようです。

五輪書は『二天一流兵法書』(一六四三)が本来の書名で、冒頭に
「新免武蔵守藤原玄信(もとのぶ)」
と書いてあるが、武蔵が
「武蔵守」
と自署するはずはない。

おそらく、五輪書は、
武蔵による草案と高弟による聞書とが混在していると思われ(大倉隆二宮本武蔵』)、有名な
「我に師匠なし…仏法儒道の古語もからず、軍記軍法の古きことをも用いず」
云々という箇所も、後人の誇張の可能性は拭えないという。

この点、
小林秀雄『私の人生観』(昭和二四年)は、次のように批評しています。

「これ(武蔵が「我に師匠なし」と断言したこと)は無論当時としては異常な事だったし…
厳密にいえば、不可能なことであった…
伝統を否定し去って、立派な思想建築が出来上がるわけはない。
併し、彼の性急な天才は、事を敢行し了つた」

現今の研究水準など知る由もないのに、小林の批評は、正鵠を得ていました。

例えば、現在、武蔵筆と判明している掛軸「戰氣」(松井文庫)にある
「寒流帯月澄如鏡」
との句は、元は有名な白楽天詩集の漢詩の一節であり、
平安期に和漢朗詠集に入ったところの、
「寒流月を帯びて澄めること鏡の如し、夕吹霜に和(くわ)して利(と)きこと刀に似たり」
から取っていた。
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武蔵は、
もとは盛唐の終宴の静寂を表した漢詩の句を、
武道の冷徹や澄明、戦いの気韻へと、転じていたのであり、
そこには、
晩年、熊本の霊巌洞に籠り、
端然と沈思する武蔵の姿やその心境を
髣髴とさせるものがあります。
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また、小林が
武蔵を「偉いと思ふのは…通念化した教養の助けを借りず…ある極めて普遍的な思想を、独特の工夫によって得るに至った」
からといい、そのうえで武蔵の
「我れ事に於て後悔せず」
との一条を引きながら、
日本の第二次大戦の敗戦が
「封建主義の誤りであった」
とするような「平均的知識で膨れ上がった頭脳」、
すなわち戦後知識人の知性のあり方を、厳しく批判しています。
敗戦直後、
小林が、
「諸君は悧巧だからたんと反省するがよい、私は馬鹿だから反省などしない」
と放言して、大方の顰蹙を買ったのは有名ですが、
そうした小林による「軽薄な進歩主義」批判とは、
武蔵の人生観を使って語られたものでした。

では、なぜ、小林は、
武蔵に注目したのか?

知識人批判と武蔵を論ずることの間に、いったい何の関係があるのか?

▼現代性(モデルニテ)の先駆性

武蔵自身によれば、
今の武士道は、
ただ「死ぬる道を嗜(たしな)む」こととのみと心得ているが、
出家でも、女でも、百姓以下でも、義のためには恥を知り、
時に命を捨てて悔いない者がいる。
死を覚悟するのに、何も差別はない。
つまり、(武蔵の言う)我が兵法には、身分差や個体差を超えた普遍性がある。
「何をか奥(奥義)、くち(初歩)と云はん、道理を得ては、道理を離れ…
おのれと(しぜんに)自由ありて…奇特を得(え)(高度な力を得て)」るならば、
練達でも、初心者でも、
自在に高い境地に到ることができるのである。

いっぽう、小林は「様々なる意匠」(昭和四年)において、
写実主義印象主義新感覚派も大衆文学も、
要するに
ただの「意匠」にすぎないと、一刀両断に切り捨てました。

これと同様に、小林が心酔したボードレールもまた、
「博愛家(フィアントロープ)、進歩派(プログレシスト)、功利派(ユテイリテール)、人道派(ユマニテール)、空想社会主義者(ユートピスト)ら、
不易の人間の本性や社会構造の避けがたい配置に何らかの変化を企てる連中を心底から憎悪し」、
「不易なるもの、永遠のもの、寸分たがわぬ同じものしか信じなかった」(ゴーティエ)
といいます。
つまり、
小林も、ボードレールも、
詩や批評に「十九世紀の歴史哲学」を超えるような、新世紀的な「現代性(モデルニテ)」を見出だそうと努めた、と考えられます。
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また、
小林の親友・河上徹太郎よれば、
当時、小林の中では
志賀直哉の感受性」と「科学的進歩主義の愚劣を…皮肉ったボードレールの夢とが、等しく嫌人性的である」ことによって同一化していた。
これが、
「その後の小林の批評の原理となったのみならず…彼の目となり、モラルとなっていた」。
また、河上によれば、
小林は「私の人生観」において、
武蔵のいう「観(かん)の目鋭く、見(けん)の目弱く見るべし」を引用しているが、
「観」とは「全体的に直覚」すること、
「見」とはカテゴリカルな分析のことであり、
小林は、武蔵の「観の目」をかかげることによって、
敗戦当時の「近代的知性の堕落」や「末梢的な進歩」を
斥けようとしていた。

「この(武蔵の)剣法が、
小林のものの見方、
又人生の本義といふところに結びついて来るところに、
私(河上)は彼の批評的方法の本質を見る」(全集3)
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そして、小林自身によれば
「私達の共感の存するところ、
古典は今なお生きている…
(それが)生きるか生きぬかは、同じ私達の詩的共感の深浅による、詩人の持つ観の目の強弱による」
と述べている。
「現代性(モデルニテ)」の理解によれば、
「すべての現代的なものが、いつか古典的なものとなる価値をほんとうに得ること―
これが芸術家の一般使命」である(ベンヤミン)。
20世紀モダニズム文学の旗手、
正統主義とは、
「現在生きている人間も、過去の人間も意見の一致を見るような、正統的な基準によって考えること」である。
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小林が
「どうにもならぬ新しさ、普遍性」を武蔵に見たというのは、
こうした、
現代性(モデルニテ)の正統主義を武蔵に見た、
ということだったようです。
後に、
小林の仕事は、
仁斎、徂徠、宣長ら、近世思想へと向かって行き、
十九世紀歴史哲学ばかりでなく、
近代文学や近代思想における個人の相克の次元を超えて、
「現在も、過去も、意見の一致を見るような正統性」の探求に
自らを賭けていきます。
そこには、明らかに
モダニズムによる「現代性の正統主義」
すなわち「現代が古典的価値を持つようになる」(ベンヤミン)ための批評精神が窺えます。
それゆえ
小林の戦中期以来の古典回帰、
戦後知識人批判というのは、
単なるイデオロギー的な左翼批判というよりも、
むしろ、洋の東西を問わないような、モダニズム文学の本流に掉さす
批評精神の発揮であった。
また、小林からすれば、
「現代が古典的価値を持つようになる」ためには、
あの戦後知識人的な「平均的知識で膨れ上がった頭脳」による理解では、
何の役にも立たず、
どうにも我慢がならなかった。
そこにはやはり、
ボードレールやエリオットの場合と同様の批評精神が働いており、
そうした、
文学者特有の鋭い知性や感性においてのみ出現した、
世界的な「現代性(モデルニテ)」といった
文学批評的な観点による
「根源の歴史」(ベンヤミン)の現出の試みであった、
と考えた方が、
小林の批評、武蔵へ批評の本質にかなり近い理解となるのではないでしょうか。
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