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人口減少💹「近代化」から「現代化」へ⤴⤴⤴📈📊

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▼人口変動の決め手は?


〈繁栄は、結局、人口減少をもたらす―〉

マルサス人口論(一七八九)の有名な定理ですが、

社会が発展すれば、人口は増加する一方で、

農地や食料は不足し、

所得も伸びず、貧困化が進み、

戦争や飢饉を招き、

人口減少にいたる…。

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しかし、こうしたマルサスの陰鬱な予言は、

イギリスの産業革命によって

一度は否定されました。

人口が増加しても、所得は減少せず、

食料も不足しなかったからです。

現代フランスの経済学者Ⅾ・コーエンによれば、

「その答えは単純だ。イギリスは、工業製品を輸出し、農産物を輸入した…

一九七〇年代に新興産業国が採用したモデル…

現在では中国が採用している経済モデルを採用したのだ」(『経済と人類の一万年史から、21世紀世界を考える』)

つまり、産業革命にともない、

工業製品の輸出・農産物の輸入といった世界貿易の国際的なシステムができたことによって、

人口が増えても、

食料も、所得も、減少しないような豊かな社会が生まれた。

けれども、

上記のマルサスの陰鬱な予言は、

まったく別の形で

実現することになります。

二十世紀末、先進国では、

所得は増加しても、

人口は明らかに停滞したからです。

そして、マルサスのいう

〈繁栄が人口減少をもたらす〉という法則は、

西側先進国ばかりでなく

やがては中国やインドなどの成長国にも波及する――。

コーエンによれば、

それは「イメージがグローバル化したからだ…

自由な女性という『アメリカ・モデル』がテレビ放映されたのと

直接的なつながりがあると思われる」(同)

つまり、人口変動の決め手は、

もはや食料でも、農地でも、

物質的条件でもない、

女性の地位向上や社会進出といった、グローバルなメージが

世界にあたえた影響を考える必要がある。

また、国連の専門家によれば、

二〇五〇年には、

世界中の女性の合計特殊出生率

西側と同じ一.八五になる、といいます(同)

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Ⅾ・アセモグルら『経済学者、未来を語る』によると、

国連によって近年想定された、

高程度、中程度、低い程度の「三つの出生率の予想」においても、

「中程度」の出生率の予測では、

二〇五〇年ぐらいから世界人口はほぼ停滞状態になるとされ、

「低い程度」の出生率の予測では、

むしろ減少に向かうと予想されています。

世界的に著名な

エマニュエル・トッド人口論によれば、

歴史的には、第一段階として《男子識字率の上昇》が起きると、

知識・情報を習得しても

十分な所得やポストは得られないなどの社会的不満が高まって、

次に《革命・戦争・クーデター・独裁などの暴力的変革をともなう移行期危機》

が訪れるという。

しかしながら、

第三の段階として

《女子識字率の上昇(50%超)》が起きると、

受胎調節が始まり、

出生率の低下》から社会は鎮静化に向かって、

最後には《民主化の定着》にいたるという鹿島茂エマニュエル・トッドで読み解く世界史の真相』)


これを近代日本の場合にあてはめると、《女子識字率上昇》は、明治期に、

出生率低下》は大正期の一九二〇年に始まります。

また、日本の《移行期危機》は、

昭和戦前期における動乱・混迷状態を考えると、

出現の順番が違っているようにも見えますが、

しかし《女子識字化→出生率低下》はトッドのいう通りであり、

これは近年のイスラム社会でも

ほぼ一斉に起きたことでした(『帝国以後』等)

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さらにいえば、
日本が江戸時代から西欧に比べて出生率が相当に低い状態にあったことは、
もともと江戸期には《女子識字率》が比較的に高かったことが影響していたのかもしれません。

その一方で、最終段階の《民主化の定着》の方は、
現代中国などには全く適用できません。
したがって、出生率民主化との関係は、必ずしもはっきりせず、
結局のところ、
《女子識字化→出生率低下》だけが、歴史的な法則としては、
ある程度の妥当性があると考えられるようです。

 

▼現代化のテイクオフ

 

近代以前では、中国やイスラム、インドが人口も多く、先進国であったのに、なぜ欧米や日本が覇権をとれたのか。

近年、米国の歴史学者N・ファーガソンの『文明』は、
①競争②科学③法の支配と代議制④医学⑤消費革命⑥労働倫理
といった成功の要因を挙げています。

しかしながら、この「近代化」の過程に、
女子識字率出生率低下
がどう関連するのかははっきりしません。

また③の所有権にもとづく法の支配や民主化も、
現代中国にはほとんど該当しないため、
むしろ法の支配や民主化などは、
必ずしも経済成長には関係がない、
経済発展をもたらすとはいえない、とする考え方も、
成り立つように見えます。

しかし、時代は変化します。

いわゆる「産業資本主義」の段階では、
低賃金の大量の労働者が必要であり、一国レベルでは、
農村の過剰労働を都市に呼び寄せ、
グローバル時代なれば、
さらに安い賃金を求めて海外転出するか、移民を導入するようになります。

つまり、「産業化」の段階では、
「労賃の差異」が最も重要な要素となりますが、しかし、
次なる「ポスト産業化」の段階では、
「新技術や新製品の差異をめぐって競争」し、
「差異性としての情報そのものを商品化する」ようになると考えられます(岩井克人ら『資本主義から市民主義へ』)。

そもそも資本主義とは、
こうした「差異性」をめぐって「利潤」を生みだしていると考えられますが、
そうした「差異」の重心は、
「労賃」から「新技術、情報、イメージ」へと移っていく。

こうなると、
「女子識字化→人口減」の世界的な状況の下においては、
民主制や所有権にもとづく自由で平等的な社会は、
非民主的な社会に比べて、
「労賃の差異」の面では一見不利であっても、
女性向上や人口減に対応するような「新技術、情報、イメージ」を生みだすには
むしろ有利なのであり、
「革新的な開発力、能力」(ファーガソン)を持っているのではないか。

また、労賃や雇用がいわば「コスト」であり、
その削減や合理化こそが「利益になる」と考えられていた、
かつてのような状況から転じて、
今度は、新技術や情報、
イメージにより「差異」を創造できるのかどうかが、
従前以上に、経済競争の中核となってくると考えられます。

こう考えると、
世界経済の牽引役を新興国だけに期待するのは、いぜんとして無理があるように思われます。
Ⅾ・アセモグルによれば、その成長は未だに先進国の技術や需要に支えられ、
グローバル化という外から容易に導入できるテクノロジーや資本が枯渇すれば、
成長は減速するかもしれないともいわれます(前掲『経済学者、未来を語る』)。

また、技術革新には
ある特定の制度の下で自然に発生し普及するパターンがあるという。
それは自由や権利が広く保証される包括的な制度であり、その対極が収奪的な制度である(同)。
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かつて、ロストウらの「近代化」論は、
近代的発展のテイクオフ(離陸)が起きるのには、
前近代の先行期における資本や制度の「蓄積」が不可欠であると考えました(角山栄『経済史学』)。
それは、発展とは、
革命や前時代の否定ではなく、
従来一般に認められる以上に「過去の蓄積」から生まれ出ると考えたことを意味します。

こうした経済学者の見解からするならば、
いまの近代化ならぬ「現代化」の状況においては、
女性向上や人口減、あるいは高齢化といった、
現代社会の維持に適応した、法の支配や所有権、
民主化との諸条件の「過去の蓄積」された社会において、
現代化の「新たなテイクオフ」が起きるのではないでしょうか。

じっさい、中国が大衆を犠牲にする「収奪的な制度」のままで成長できたのも、
先進国の「包括的な制度」にはじまるグローバル化や外注(オフシェア)の影響であったといわれます(アセモグル)。

また、IT化も、
従来の経済原理であった「収穫逓減」ではなく「収穫逓増」を経済的世界にもたらしたといわれ(B・アーサー『テクノロジーイノベーション』)、
こうした先進国に始まるIT化が、中国の生産向上にも大きく影響したと考えられます。 

もちろんかつてのような、
自動車や電気製品の出現、パソコンの登場といったような、目覚ましい技術革新が、今後も続々と起きるとは考えにくい。
しかし、画期的なイノベーションがもはや困難な状況であるからこそ、
世界的な女性の地位向上や識字化、人口減、高齢化の状況の下においては、
それに対応できる、個別的で、繊細、多様性をもたらすような
高度ながら微細な技術革新は、
かの収奪的で、全体主義的、
自由や権利が制約される制度の社会よりも、
むしろ包括的な制度において開発される可能性が高いことは、
まず疑えないところではないか。

これは、近年のAIやⅤRなどに見る、非常に高度であり、
個別的、繊細で多様性をもたらす技術開発のあり方から見ても、
容易に推察できることではないかと思います。


▼租税国家の宿命

けれども、
現在の中国のように
「制度の変化がおこらない成長」が現れるとともに、
包括的な制度の側にも、不吉な兆候が現れます。

一つは、中国を支えたグローバル化から、先進国の就労形態や賃金に変化が生じ、
経済格差が拡がり、中間層が減少したこと。
もう一つは、公的債務の累積と低成長の長期化です。

経済成長がGDPの90%を超える過剰債務から何らの影響を受けないとは考えられません。
むしろ過剰債務は、将来への不安とともに長期に成長率を押し下げ、
それ以前に比べて生産水準は25%近くも低下したことを、先進諸国の26の事例によって検証した研究もあります(ファーガソン『劣化国家』)。

また、過剰債務は、
現世代の有権者が、投票権のない若者や
まだ生まれない子の金を使って生きるという、
新たな収奪制度を生んでいるともいえます。

つまり、「包括的な制度」の先進社会でありながらも、
若者や幼児から強制的に「収奪する社会」となり、
しかも、それによって長期にわたる低成長が避けられなくなる…。


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「この世に生を借りた存在でしかない者が、祖先から受けとったものや子孫に支払うべきものに気をとめず、すべてを所有するかのようにふるまってはならない…
自分たちが祖先の諸制度をほとんど尊重しなかったように、後継者に自ら生み出した機構を尊重する必要がないと教えることになってしまう…
(国家とは)生者たちの協働事業(パートナーシップ)であるだけでなく、生者たちと死者たち、これから生まれ来る者たちの間の協働事業でもあるのだ」(E・バーク『フランス革命省察』)

それゆえに「収奪的」な制度ではなくて、
過去から将来への「協働事業」を世代間でいかに維持していけるのかどうか、
世代間の伝統の「蓄積」が有効に機能するのかどうかが、
現代化における新たなテイクオフを決定するのであり、
それは日本のみならず
世界の将来をも左右すると考えられるようです。

人は、財政赤字が大きくなる時、
公共心や将来への不安もあって、「赤字削減」に一応は賛成します。
しかしながら、具体的に何を増税するのか、
何の支出を削減するのかとなると
意見がまとまらず、
むしろ利害が対立して
たちまち公共心が失せてしまいます。

「国家の財政能力には限界がある…
もし、人々の意思が公共的な支出をさらに多く要求し続けたらどうなるだろう。
個人の生産性を超えてしまうような目標のために、ますます多様な政策が要求されていったとしたら、どうだろう。
最終的に、国民のあらゆる部分が、私的所有についてまったく新たな概念を持つようになってしまったら、いったい何が起こるのか。
このときには、租税国家は、進むべき道を歩みきってしまったことになろう。
…この限界点に租税国家は必ず到達するだろう」(J・シュンペーター『租税国家の危機』)


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たとえ《収奪的》ではない《包括的な制度》の民主的国家に生きているとしても、

それだけでは安心できる将来は約束されないようです。

むしろ《包括的制度》であり、

民主的国家であるがゆえに、

「租税国家」として、

「最終的に、国民のあらゆる部分が、私的所有についてまったく新たな概念を持つよう」になる危機が

つねに存在していると考えておいた方が、賢明であるように思われます。

また、世界経済の牽引役を新興国にのみ委ねるのは、

いぜん無理があるのが「現代化」という時代であれば、

われわれ《包括的な制度》の社会が「租税国家としての危機」に陥ることは、

民主社会ばかりか世界的な危機を呼ぶ事態になりうることも、

考えておく必要があるといえるようです。

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日本の通信産業は、

よく閉鎖的で独占的、単に国内市場が大きいがために、

他国システムとの互換性を考えず、独自開発に突き進んだといわれます。

ガラパゴス」と揶揄されるゆえんですが、しかし十数年前、

スマホの将来を予感した米国人は、そのガラケーを駆使するJKの姿に「明日の世界」を見ていた。

いまに世界中のだれもが、

高性能カメラ、音楽、アプリなどをたった一個の端末で、

いつでも自由自在に楽しむ時代が来ると考えた。

新たなトレンドを探る人は「エッジケース(限界的事例)」

すなわち世界に広く普及する前に、特定の集団だけに広がる先進的現象に注目します。

日本のガラケーは「そのわかりやすい例」であり、

女子高生文化には「誰も気づいていない、細かな違いや意味を見つけ出していく」発想があった。

大量の商品が行き交う中でも、

わずかな差異の持つ価値を楽しむ態度が、

戦前の女学生文化以来、ファッションから音楽の嗜好に至るまで通底していた(『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』)。

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考えてみれば、

「すべてをシンプルに…とてもシンプルに」(S・ジョブズ)との

簡素化一辺倒のシリコンバレー的な発想から、

多機能性のスマホが生まれたというのも奇妙な話でした。

実際は、ガラケーを使い倒す、

最末端のJK文化的な微細な思考が貢献していた。

IT企業のⅭEOといえば

絶対君主のごとき権力者のように言われますが、

大企業も競争相手に対して明らかに脆弱化し、

顧客の感情の微妙な変化に戦々兢々としている(Ⅿ・リドレー)。

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彼らが夜も寝られぬ思いをする競争とは、

ライバルが価格を下げることではなく、

自社製品を時代遅れにする起業家の革新(イノベーション)だと指摘したのは、

経済学者のシュンペーターでした。

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彼はそれを創造的破壊と呼びましたが、

かかる革新を引き起こす要因は、

いまや天才の発明や国家的計画よりもJK文化のような卑近な趣向に始まり、

何の権力も陰謀も使わず、

声高にデモに訴えるでもなく、

いつの間にか社会を彼女達にとって好ましい世界へと変化させました。

かつて思想家や哲学者は、

革命はバリケードや暴動、権力の謀略などから生まれると言った。

しかし彼らは弱者や労働者を守ると言いながら、

そのじつIT長者を封建領主のごとく見る旧思考と同様、

下から湧き上がる自然発生的な「創造的破壊」の影響力をあまりに過小評価していた。

もはやかつてのような

闘争的で喧噪的、決定論的な思考では

「エッジケース」のもたらす明日の世界は見えてこないことを、

スマホは我々に日々、教えているのではないでしょうか。

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