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I must become emperorー✴👑🌠象徴天皇制の歴史的なる精神


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象徴天皇制の歴史的なる精神—
I must become emperor—

土井郁磨(亜細亜大学非常勤講師)

▼誡太子書という大文章

さむからし民のわらやを思ふにはふすまのうちの我もはづかし

〈どんなにか寒いだろう、民の藁葺の生活を思えば、温かな寝間の我が身が恥ずかしい〉

をさまらぬ世のための身ぞうれはしき身のための世はさもあらばあれ

〈安らかに治まらぬ世の天子の我が身こそいっそ嘆かわしい。自分のための世はどうあろうとよい〉

北朝第一帝・光厳院(一三一三~六四)の御製であり、
いわゆる帝王調や至尊調と呼ばれる御歌の典型です。
前者は、
寒夜に衣を脱ぎ、民の苦を思った
古代の醍醐帝の逸話に因む歌であり、
これら深い自省と愛民の思想は
「西欧の覇王たちには、見ることのできない『帝王学』である」(村松剛『日本人と天皇』)
とも評されます。

光厳院を幼児から手塩にかけて薫育したのは
叔父の花園院でした。
元徳二年(一三三〇)、
花園院は、
前年元服した皇太子(光厳院)に
誡太子書(かいたいししょ)を示し、将来天皇となる指針として
「苟(いやしく)も其の才無くんば、即ち其の位に処(お)るべからず」
との非常に厳しい教訓を与えます。

「太子は宮人の手に長じ、未だ民の急を知らず」。
綺羅を着て、民の織紡の苦を思わず、
珍膳に飽き、農商の艱難も弁えず、国に対して尺寸の功無く、
民に毫も恵みを与えず、
「庶民の間に莅(のぞ)む。豈(あ)に自ら慙(は)ぢざらんや」
さらに院は
一系の皇統によって無条件に統治できると考える者を
「諂諛(てんゆ)の愚人」
として強く斥けます。
我が朝は「皇胤一系」であり
外国のように革命や簒奪もなく、
天神地祇の助けで侵略されず、
大過がなければ
君子として十分と考えるのは
「深く以て謬(あやま)り」である。
平時ならば
それでもよいと思うだろうが、
乱とは平時にこそ胚胎する。
君主がもし聖賢に非ざれば
「国は日に衰え、
政は日に乱れ、
勢必ず土崩(どほう)瓦解(がかい)に至らん」
翌年、
後醍醐帝が討幕の兵を起し、
ついで光厳天皇が即位、
六十年に及ぶ大乱に突入したことを思えば、
花園院の予見の確かさには
驚嘆するばかりです。
同書は、
正確な院の知見と危機感から生まれた
まさに「大文章」でした(橋本義彦『平安の宮廷と貴族』)。
また、
皇太子に対して
厳しい反省と自覚を促し、
危局に処す道は、
学に勉め、徳を修める以外ない、
と説いたのも
「人の帰する所、定めて天の与ふる所」(花園院宸記・文保元年三月三十日)を見極めよとの
天命思想に通じる思想を背景に持っていたからでした。
それは
いわゆる易姓革命を危惧したものではないものの、
「其の才無くんば、即ち其の位に処るべからず」
とまで
峻厳な皇統観を伝えたのも、
花園院からすれば
皇威に対する凡庸な依存こそが
大乱の因であり、
これを「諂諛の愚人」の論として
厳しく斥けたのも、
自省と愛民なくして
一系の皇統と国家統治は
ありえないとするような、
本来の意味での帝王学
再構築しようとする
思いがあったからと考えられ、
また実際、
この自省と愛民の帝王学は、
冒頭に掲げた御製のように
深い感懐を伴う思想として、
現今にまで広く伝わっています。

▼譲位の静かなる決意

今年(平成30年)2月、
皇太子殿下は
御誕生日に先立つ会見で
後奈良天皇」の逸話
について語られました。
戦国期の十六世紀半ば、
洪水等による飢饉や疫病に心を痛められた天皇は、
苦しむ人々のため、
諸国の社寺に奉納するために
自ら宸翰(しんかん)般若経を写経された。
ある奥書には
「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、
心を痛めている」との思いが記されていた。
こうした
心経写経の例は
平安期の嵯峨天皇を始めとして、
鎌倉期の後嵯峨天皇伏見天皇
室町の後光厳天皇後花園天皇後土御門天皇後柏原天皇後奈良天皇などの例が挙げられる。
「私自身、先人のなさりようを心にとどめ、
国民を思い、国民のために祈るとともに、
両陛下がまさになさっておられるように、
国民に常に寄り添い、
人々と共に喜び、
共に悲しむということを続けていきたいと思います。
私が後奈良天皇の宸翰を拝見したのは(前年)八月八日に陛下のお言葉をうかがう前日でした。
…図らずも二日続けて天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます」

かつて今上天皇陛下は、
皇太子時代に
理想の天皇のあり方を記者から問われた際、
天皇は伝統的に政治を動かす立場にないとして、
嵯峨帝以来の写経の精神を挙げ、そして後奈良天皇の奥書を示されましたが(岩井克己『天皇家の宿題』)
はからずも、
今回、天皇陛下とまったく同じ逸話を、
皇太子殿下も語られたことになります。

自省と愛民の帝王学は、
古代に始まるものの、
花園院の誡太子書によって
中世動乱の直前に
厳格に意識化され、
以後、
皇室の伝統的な訓戒となり、
これを今上陛下と皇太子殿下は
現在の象徴天皇制
歴史的源流の精神として
受け継がれた。

ある意識や倫理観が
長期にわたり持続されることで、
あらゆる感慨や情念が共同的に感ぜられ、
時代の精神となるとともに、
個々の事績を超えて
正統な系列としてつながっていく(E.パーク)。

占領中、
今上天皇(当時は親王)は、
ヴァイニング夫人の英語授業において
「将来私は何になるか」の課題が出た際に、
皆が「I will become…」と書いた中で
今上陛下だけは
「I must become emperor.」
と書いた。
ヴァイニング夫人は
「それは違う。
I will become…と書きなさい」
と訂正したという(岩佐美代子『宮廷に生きる』)。

しかしながら、
親王の心中には
将来こうなるだろうとの「will」ではなくて
「must」という
義務や宿命の感が漲っていたようです。
占領当時、
皇位は決して
安定的な予定とか将来ではなく、
ましてや
皇位継承を拒否する自由など
まったく考えられなかった。
けれども、
「I must become emperor」
の語調には、
そうした将来が見えない中でも、
皇位は必ず継承し、
何事も成し遂げるとの
静かなる強い決意がうかがえます。
いわゆる
皇統の帝王学象徴天皇制とは、
こうした高貴な決意と共に
受け継がれたようです。
じっさい
皇太子殿下は
会見で、記者から再三繰り返された、
天皇とはその存在自体が重要なのか
それとも活動が大事なのか、
との昨年の退位論議に関連する質問を受けて
こう結ばれた。
「中世史を研究している関係で、
譲位された天皇がおられる事実は承知しております。
私からは、とくにそれ以上のことは、今申し上げるのは控えたいと思います」

しかしながら、
「控えたい」とは仰ったとは言え、
答えはもう自ずから明らかであり、
象徴天皇制の精神、
「I must become emperor」
の決意は、
あらゆる時代も
困難をも乗り越える
一系の皇統の帝王学となって、
陛下からの「譲位」、
つまり殿下への「受禅」と共に、
厳粛かつ歴史的に
いま継承されようとしていることは、
最早、
多言を要しない事柄ではないか
と思われます。
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