doi_iku’s blog

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伝統は、未知なるものへの適応を果たす

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歴史のことば劇場⑱

🔲男系継承は、法の支配と自生的秩序の典型例

 

君主は伝統を守る存在であり、

政治は歴史を教師とすべき言われますが、

古代の律令法には、

皇位継承に関する規定は存在しません。

その理由の一つに、

「非常(ひじょう)の断(だん)、人主(しゅ)これを専(もっぱ)らにす」(名例律疏)

という基本理念があります。

この規定は中国律令に由来しますが、

皇帝は法律に制約されずに専断する、

つまり、

君主は臣下のように法の下には置かれず、

法を超越する絶対的な存在である

とする理念です。

このため、君主の拘束規定は、

律令の条文では排除されますが、

ところが、

平安期の法令集貞観格(きゃく)』(869)の序には

「君、百姓(ひゃくせい)と之(これ)(格)を共(とも)にす。

君、之を上に失ふべからず。

臣、之を下に違(たが)ふべからず」

とあります。

天皇はそもそも律令の原則では

中国皇帝と同じく

法を超える存在であるはずです。それなのに、

現実の律令の施行法令では

百姓(公民(おおみたから))と法を共有すべき存在とされていました。

すでに、聖徳太子の時代の十七条憲法にも

「それ事は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)うべし」

とあり、

その典拠とされる韓非子や管子では、

権力者は「独断が許される」とされているような大陸の「独断」の思想とは、

まったく正反対の

「衆論」「衆議」の教えもありました。

つまり、日本の天皇は、

中国皇帝的な専断や独断とか

法を超越する存在というよりも、

法を人民や官僚と共有する存在なのであり、

しかも

律令以前の聖徳太子にまでさかのぼる古くからの慣習に従って、

独断せず、衆議を尽くすべきという教えを

伝統的に引き継いだ存在

と考えられようです。

これは

西欧的な思考からするならば、

モンテスキュー

「法の支配」はもっぱら君主政治にあるといい、

共和国にはそれがないと考えました(M・オークショット)

またH・スペンサーは、

人間は政府の成立する前から「長期にわたって認められた慣習」に支配され、

「政府が生じると、その権力は慣習によって制限される」、

ある慣習を変えようとする試みは「国王の廃位をもたらし」、

英国のコモンローは主として「王国の慣習」であると述べました。

そうした意味では、

日本にも

律令体制よりも「古い」時代にまで遡る、

実定法や公法を超える次元の

「法の支配」に近い慣習規範や

王国の組織原理が存在したのであり、

とくに、律令に該当条文がなく、

法に規定されない皇位の男系継承とは、

こうした不文律的な「法の支配」の典型例ではないか

と考えられます。

じっさい、

愚管抄(ぐかんしょう)は、

外国では「徳」があれば国王になれるが、

我国は「御血筋」でないと天皇になることは絶対にない、

神代(かみよ)からその道理は定まっていると述べました。

また神皇正統記は、

皇統の正統(しょうとう)とは父子相承のことであり、

院・天皇からの「まさしき御ゆづり」によって、

過去から現在、将来へと至る一本の線として構成されると論じました。

思えば、

第二次世界大戦後における「国民主権」といっても、

憲法のおかげで大革命が起ったわけでもなく、

象徴天皇制といっても

それは伝統的な天皇のあり方であり、

伝統的な天皇像の一つといえます。

じっさい、上皇陛下や天皇陛下が、

「象徴」について語るさいに、

古代や中世の歴代の天皇のあり方を例にあげるように、

現代の象徴天皇制もまた

伝統的な天皇のあり方の一つに相違ないとの考え方がうかがえる

と思われます。

また、一般的にも、

社会の制度は人間による「計慮の結果ではなく、自然的過程の結果である」(K・メンガー)といわれ、

人間の活動の成果ではあるけれども、

人為的な思慮や設計を超えて存在し、機能するのが

社会的制度といえます。

それをF・A・ハイエクは自生的秩序と呼び、

そうした無数の世代にわたる長期的な経験のおかげであり、

わずか数年の事業で作られるものとは明らかに異質な「自生的秩序」を、

自分らの意図や思惑に従って変えようとするのは

「完全に誤った推論である」(ハイエク)と述べました。

要するに、

ハイエクにしたがえば、

継続する伝統とは、

未知なるものへの適応を果たし、

今日的な理性よりも優れている、

あるいは「賢い」(同)

といってよいようです。

このため、

歴史的な男系継承を否定するということは、

「完全に誤った推論」であり、

いわゆる法の支配や自生的秩序の否定である

と考えられます。

しかもそれは

人間はまさに時間の子であり、

人間の知性の範囲の狭さや限界(ヒューム)を指摘する

自由主義の哲学思想の根幹を否定する

「完全に誤った推論」である

と考えられるようです。

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