doi_iku’s blog

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"巧まざる"日米のコモンウェルス

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新しい国史への招待40
日米の“巧まざる”認識の一致

▼ケナンの歴史認識

韓国への輸出規制をめぐって「日本は侵略国」「植民地犯罪を謝罪しろ」などと韓国大学生らが騒いでいると報道されています。
またか、とウンザリしますが、
彼らは戦後の自由世界の基礎を築いたともいえる
G・ケナンの「対ソ封じ込め」政策に見られる歴史認識について
一体どう考えるのでしょうか。
ケナンの言動を見るかぎり、
米国を中心とする西側世界の国際政策や秩序が、
日本を侵略国とする歴史認識によって形成されたとは
到底考えられません。
ケナンの『アメリカ外交50年』(一九五一)は、
冷戦の政策的な影響とともに
外交論議や外交史研究にも多大な影響を与えますが、
同書は、
二十世紀前半の米国外交とくに対中国、対日本の政策は
「最も重大な錯誤」を犯したとし、
その原因には
「国際問題に対する法律家的(リーガリスティック)、道徳的(モラリステック)アプローチ」
の影響があると述べました。
そうした
法律道徳主義者の脳裏にある
「世界秩序」とは、
「自分たちの法律上の諸概念を国際的事件にあてはめ」
「国際交渉を規制する法の諸原理に、他国の人々が服従しこれに尊重するようになりさえすれば、
世界の安全と平和は保障されると信じ」るような
独善性が存在していた(ケナン『アメリカ外交の基本問題』)。
その典型が
ケロッグブリアン条約および満州における日本の膨張政策を妨げるための
どちらかといえば法律主義的なスティムソン(陸軍長官等)の努力にみられるような
あまりにも非現実的な無謀な行為」である。
このように、
ケナンが不戦条約にもとづく侵略犯罪論やスティムソン・ドクトリン、または満州事変批判に対して、
きわめて懐疑的であったことは
言うまでもありません。
さらに、
対日戦争は、
「時の政治家―とくにコーデル・ハル」が「法律主義的かつ道徳主義的な考えに耽溺したことの結果」である。
もし国務長官ハルの「執着」がなければ
「太平洋戦争はたぶん避けえたと思われる」。
米国民は
「この事実を当時も理解しなかったし、現在も理解していない」。
自分たちは
「攻撃され挑発された」として
「単純な印象をもとに…太平洋戦争に乗り込んで行った(※真珠湾攻撃のこと)」。
これらは
米国が何に対して戦っているかは答えているが
「何のために戦っているのかという将来のためにはより重要な問題」には答えていない。
要するに、
ケナンによれば
日米戦争とは法律道徳主義の迷妄によって真の目的と真の敵とを見失った奇妙な戦争であり、
米ソが共同でナチスドイツと戦ったのは「偶然の一致」にすぎない、
米国は日本を徹底的に敗北に追い込んだものの
米国がこの地域で対峙したのは、
皮肉にも、日本が十数年前に対決したソ連や中国であった。
このため米国は
対日戦争に対して
相応の責任を負うべきであり、
ドイツや日本という「大工業国」を共産勢力が支配する危険に対処しなければならない(『アメリカ外交50年』)。

昭和二三年秋、
対日占領が当初の弱体化政策から転換するのは、
まさにケナンによる政策的なイニシアティヴの影響であり、
冷戦を方向づけた「封じ込め」もまた、
ケナンの米国外交批判、
法律道徳主義批判との歴史認識が直接に結びついた事例である
と考えられます(三谷太一郎『学問は現実にいかに関わるか』)。

 
コモンウェルスという「精神に明記された義務」

また、
日本が敗戦状況から脱し、
講和、日米同盟への基盤が築かれるのも、
昭和二二・三年の
ケナンと吉田茂との見解の一致に始まります。
吉田は、占領下の日本で共産勢力の伸長を防ぎ、政治的安定を得るには、
米国主導の経済圏に入り、経済復興を成し遂げるほか道がないと考えました。
これは当時
国務省政策企画室長だったケナンの「封じ込め」政策と符合し(中西寛ら『二〇世紀日米関係と東アジア』)、
こうしたケナンの構想は
二三年十月の対日政策文書に踏襲され(NSⅭ13/2)、
講和条約はできるだけ非懲罰的とし、
日本を敗戦国でなく
対等な一国家として扱うこと
などを提案しました。
したがって、
戦後日本の安全保障、
講和への道は、
このケナンと吉田の一致を基調に、
旧敵国から潜在的同盟国へ、
すなわち侵略国としての懲罰ではなく、
むしろ将来的な対等関係をめざす同盟関係の構築への道として
築かれたと言えます。
また、吉田によれば、
戦後の日米協調は
「自然且つ必然に…巧まずして発展生成した事実関係」によるものであり(『回想十年』)、
日米ほどその戦争の前後において、両国の関係や感情が、
大きく変化した事例はなかった、
と考えました。

昭和三十年、
作家フォークナーが来日した際のメッセージによれば、
南北戦争によって
「勝者は、われわれ(南部)」を打ち負かし、
「国家のうちに、また国際社会のうちに復帰させ、復活させようとする努力を全然やらなかった」。
けれども
「これらすべては過去のことである。今日、我々の国は一つである。…この苦悶をなめたが故に、われわれはより強くなった…。
その苦悶が戦争に傷ついた他の国民に対する同情をわれわれに教えた」。

またフォークナーは言う。
「戦争と災厄こそ人間に忍耐と頑強さの記録の必要を悟らせる。
あの戦禍の後、すぐれた南部の文学の蘇りが起った…。
同様のことが日本でも起こるだろうことを私は信ずる…
全世界が耳を傾けようと望むような、またたんに日本的な真実にとどまらぬ、
普遍的な真実を語る一群の日本作家たちが生まれるだろうことを」(佐伯彰一『日本を考える』)。

もちろん現実には
このフォークナーの願いとは異なり、
戦後文学から始まるというのではなく、
吉田茂のいう
「巧まざる事実関係」の堆積から、自由世界へと向かう「普遍的真実」は生じました。
E・バークによれば、
諸国家は
「互いに文書や印章で結びついているわけではない。
相似していること、
符合していること、
同感できることによって結びつくように導かれている…。
それらは自分たちが結んだ条約以上に力を持つ、
精神に明記された義務である」(J・Ⅿ・ウェルシュら『国際関係思想史』)。
すなわち、
日米関係においては、
ケナンと吉田の認識の一致というばかりでなく、
両国の戦争の深刻な経験をへて形成された
日米の「巧まざる真実」、
その期せずして符合し、相似し、
同感できるにまで至った
「精神に明記された義務」によって、
大戦後の国際社会の複雑な現実にも一定の解決がもたらされました。
その反対に、
ケナンが批判した侵略犯罪論や法律道徳主義によって、
日米の「コモンウェルス(共通の文化的基盤)」が生まれたり、
その基礎が築かれたわけではけっしてなかったのです。
いやむしろ、侵略犯罪論や法律道徳主義に対する批判や見直しの中から、
占領政策の転換や講和への道が始まり、
日米同盟の基礎が生まれていた
というのが実情でした。
このように、
歴史認識とは、
単なる国家的な自意識という以上に、
国際秩序や国家間の相互利益の根幹に関わる現実問題であり、
もしも、
歴史認識を大きく誤れば、
国際秩序や相互利益は損なわれ、
自由社会の歴史的規範が毀損されるであろうことは、
最早いうまでもないことだと思われます。
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