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「文明」としての源氏物語

歴史のことば劇場69

一九二・三〇年代、A・ウェイリーによって源氏物語が英訳され、当時の西欧の文学好きは、同時期に英訳されたプルースト失われた時を求めて』とともに源氏を愛読したそうです。

彼らにとって、源氏を読むことはプルーストを読むのと同じく「感覚的に鋭い」「強烈な美的体験」だった(Ⅽ・P・スノー)といいます。

折口信夫によれば、

古代日本の神話では、神々や天皇は祭事のように女と聖婚し、土地の女の持つ呪力や霊力を得ることとで国を統治した。

この古代神話の「色好み」の信仰に準ずるかのように、源氏物語では天皇の子である光源氏の恋愛や盛衰の生涯が描かれるといいます。

光源氏は、父・桐壺帝の妃・藤壺と密通し、子が生まれるが、帝は自らの子と疑わず、溺愛し、その子はやがて冷泉帝となる。

天皇が不義不倫の子という途方もないスキャンダルのもと、中年になった光源氏は、妻の女三の宮に裏切られ、若い男・柏木が産ませた子を我が子として抱く。自分の若い頃の行いと同じ仕打ちを受け、涙する。

「かかる古事の中に、まろがやうに実法なる痴者(律儀な愚者)の物語はありや」(蛍の巻)

物語とは「良きも悪しきも、世に生きる人の、見ても見飽きることなく、聞くも何か心に余る有様を、後の世に伝えたいと思い、一つ一つに心に包みきれずに言いおいたのが始まりである」(同巻、現代語訳)

この一文は古今和歌集「仮名序」の「心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせる…」の発想を受けており、

有名な「日本紀などは、ただかたそばぞかし(問題ではない)」の文言も、この直前に出てきます。

要するに、事実を記した歴史では表現できない、現実にはありえない物語、神話的な人物によってしか表現できない情念が存在するー。

これ以降、王朝文学に源氏物語の世界観は必須となり、源氏に従って新たな表現を生むこと、古典を利用して新しさを出す古典主義的な手法が、日本文学の伝統となります。

後半の宇治十帖では、ヒロイン浮舟は光源氏の子・薫と貴公子・匂宮との板挟みになり、入水し、行方不明になる。

薫はいぜん浮舟に執着するが、出家した浮舟は、自らの一周忌での法要の着物、紅に桜の鮮やかな袿を、死後の世界から振り返るかのようにしみじみと眺める。

薫は藤原道長の嫡男・頼通がモデルとされ、

紫式部は「道長たちが競い合っていた線を突きぬけた自由なところ」に立っていた(清水好子)。

物語は「色好み」の栄華が描かれ、人生は様々に暗転し、やがて反「色好み」、一人の若き女性が政治社会の秩序から「自由」となる境地へと辿り着くー

「あらゆる脱出のうち最もセンセイショナルなもの、あらゆる反逆のうち最もロマンティックなものは文明にほかならぬ」(チェスタトン

源氏物語は、古典主義的であることが「斬新」であり「自由」になれるという意味で「脱出、反逆」であり、

またそれが西欧モダニズム文学にも通じる「普遍性」を持つという意味で、

この物語を生み出し、受け継いだ日本文明こそが「最もセンセイショナルで、最もロマンティック」である実情を、よく明らかにしているのではないでしょうか。