歴史のことば劇場68
「日本的心情」の驚くべき効用
『ライシャワー自伝』(徳岡孝夫訳、1987)によれば、1962年2月、駐日大使としてロバート・ケネディ司法長官の訪日に関った際、
「ロバートに請うて15分間を二人だけで過ごし…沖縄の自治と将来の返還を早めるよう説いた。彼は熱心にメモを取り…やがて大統領の耳に達したらしい」、
同4月、ケネディ大統領は、沖縄がいずれ日本に返還される旨を言明します。
また大使を辞任して帰国した66年8月下旬、
国務省日本課長R・スナイダーより
「国防省国際関係課と合同委員会をつくったと教えられた。私が提唱した沖縄返還が実を結び始めたのを知って、私は満足した」と回想しますが、これは近年の研究でも、
スナイダーを中心に国務省と国防総省にわたる共同組織で沖縄返還へ向けた本格的な検討作業が始まった(河野康子)とされる指摘と一致します。
そもそもライシャワーは、1941年8月の対日石油禁輸の際も「日本を開戦に追いやるという理由で反対した」人物であり、
当時ハーバード大の新進講師でしたが、国務省に日本専門家が少ないため極東課で働くよう頼まれ、
「ほとんどの書類を見たし」、課長Ⅿ・ハミルトンから「重要な問題で意見」も求められた。
だが国務省長官特別顧問のホーンベックや上層部は、反対論などには「全く顧慮せず、一方的に禁輸を強行した…あの措置により日本はジリ貧よりは乾坤一擲の対米決戦を決意したのである」と述べています。
また当時の米国は「紛争以前の状態の回復」をしきりに日本に求めたが、
「それは帝国主義と不平等条約の温存」でしかない。西欧は「日本人がみずからの意思で国を動かそうとするのを生意気と考え、自分は好きなだけ帝国主義のゲームを楽しみながら、日本人がそれに参加しようとすれば非難した。私は、そういう態度が許せなかった」
さらに排日移民法などの人種偏見の排除を訴え、1942年3月、ボストン「グローブ」紙上では日本人強制収容所についても批判します。
1945年秋、今度はヴィンセント極東部長の特別顧問として招かれ、天皇と天皇制の将来に関する立案を担当します。
彼によれば、米国はポツダム宣言と日本側との応答により天皇制温存をすでに承認し、またそれが日本国民の求めるところである。
連合国の英国も立憲君主国であり、日本の「民主的政府の建設のため…天皇の地位を象徴的なものにとどめ、憲法の一部を改正しなければならない」。
また沖縄は「なるべく早期に返還するのが基本線」とも説いたといいます。
ライシャワーは小さい頃からBIJ(Bone in Japan、日本生まれ)と呼ばれ、
日本語の発音も理解し、周りから「東洋の神秘がわかる魔力の持ち主」のように扱われた。
また「女中のハルさん」から受けた「サムライ的価値観」を尊重し、
日本の家屋の「杉皮の屋根を打つあの雨音よりやさしい音を聞いたことがない」と記すような人でした。
そうした彼の心身のなかに長年育まれた「日本的な心情」が、彼の学問や人生ばかりか、
沖縄返還、戦後の「イコール・パートナーシップ」の日米関係、象徴天皇制の初期の構想にまで影響を与えたとすれば、
じつに驚くべき「心情の効用」というべきではないでしょうか。