doi_iku’s blog

LINEブログから引っ越しました。

近ごろ震災や水害☔⚡がつづいてますが…

震災・災害対応の比較思想史

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▼西欧の「文学的政治学」、日本の「訴願復興」

一七五五年、史上稀に見る大地震ポルトガルで起きました。

海洋都市として繁栄を誇った首都リスボンは、地震津波、火災で、

ほぼ壊滅状態に陥り、

三万とも六万ともいわれる死者が出ました。

このリスボン震災によって、

西欧世界は大きな精神的衝撃を受けました。

当時、啓蒙主義から進歩的な将来が謳歌されていましたが、

この震災によって、

反文明的な悲観論が広がり、

最後の審判も近いとする終末論も横行したといわれます。

啓蒙思想ヴォルテールも、

近代的知性への疑念を表明しました。

ヴォルテ~ルによれば、

ライプニッツ以来の楽観主義の理神論(オプティミズム)の立場からすれば、

震災の被害もまた神の意志によるものである。

つまり、神による「全体の善」を達成するためには、

地震や震災もまた必要な個別の犠牲となる。

しかしながら、

罪なき人々の言語に絶する辛苦を「必要な犠牲」とするような楽観主義の神とは、

何と無慈悲な存在なのであろうか。

人間の知性とは、何と無力であることか。

「賢者たちは私をだました。(理神論ではなく)やはり神のみが正しい」

リスボン災禍についての詩、一七五六)。

「議論とかするひまがあったら働こう…とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ」

カンディード、一七五九刊)。

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ところが、

同時期に活躍したルソーは、

こうしたヴォルテール懐疑論

きびしく否定しました。

震災の被害の深刻化は、

信仰や宗教的理念によるのではなく、

高層建築への人口集中など人間や社会の側に原因がある。

物質的存在は「全体のため」にあり、

人間は、自己自身のために

「最善に配列されている」、

「すべては全体にとって善である」

と、ほとんど理神論と同様の主張を行って、地震は全体的な善に叶うと主張しました(ヴォルテール氏への手紙、一七五六)。

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つまり、
ヴォルテールがつとに気づいていた近代的知性の限界、

いわゆる近代的な理解や理性に対する反省を、ルソーは葬り去った

と考えられます。

フランス革命に関する古典的著作として知られる

トクヴィル『旧体制と革命』(一八五六)によれば、

「十八世紀哲学の特性は、人間理性の一種の崇拝、

自分の好みに合わせて法律、制度、習俗を変革できるとする

人間理性の全能への無限の信頼である」

といいます。

当時の知識人は、実践的経験が皆無なまま、

古い伝統を因習として嫌悪し、

一般的理論、完全な体系、法律の厳密な規則性を愛好しました。

既成事実を蔑視し、部分的改善ではなく、

統一的計画に基づいて制度全体を変革しようとした。

しかしそうした

「フランス人の理性は、

新しい形態の隷従を創出したにすぎなかった」。

トクヴィルによれば、

フランス革命は、

十八世紀の「文学的政治学」に知的起源があり、

そうした革命は

人間の抽象的な「理性」によって

新たな「隷従」を生むものであった。

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こうした意味では、
ヴォルテールがいち早く懸念を表明していた、近代的知性や理性に対する深い懐疑は、

その後のフランス革命にいたる西欧思想のなかでは、

深まることはなかった。

啓蒙主義や合理主義に対する反省やその改善へとは進まなかった、

といえます。

じっさいの時代は、技術革新が進み、

産業革命をもたらす経済発展が

次に用意されていた時代であったにもかかわらず、

フランスでは、技術の発達ではなく、

著作家の思想が「世論を掌握」していき、

現実的で、技術的思考はさほど進展せず、

むしろ非実践的で、

抽象的な「文学的政治学」による、

全体主義的な支配へと

社会は突き進んでいったと考えられます。

こうしたフランスとは、

全く対照的な歩みを見せたのが、近世日本社会でした。

宝永四年(一七〇七)に起きた富士山噴火は、

新井白石『折りたく柴の記』が詳しく記録していることで有名です。

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しかしながら、
幕府高官たる白石の記録よりも、

旗本の『伊東志摩(しまの)守(かみ)日記』な記録の方が現在では重視されており、

富士山噴火の十一月二三日以来、

夜も寝ないで空を見ていたと思えるほど、時々刻々、

噴煙、灰礫、現地報告、

前兆地震、噴火年代記、庶民の狂歌にいたるまで、

現代の地震学者であっても

驚くほどの詳細な記録や報告を

残しています(小山真人ら『富士を知る』)。

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また、同十二月、
被災した小田原藩の村々では、自力復興は困難とする訴願を藩に対して行って、

藩の対応が不十分と見るや、

今度は足柄上下両郡の百四ヶ村の百姓らが寄合って、

幕府に対する訴願を決めました。

そして翌正月、

四~五千人が小田原に集結して、国府津(こうづ)まで行進します。

百姓側が代表の江戸派遣を進めていくなかで、

藩役人は、御救(おすくい)米二万俵(応急対策)、

田畑砂払い金二万七千両(復旧対策)の支給を約束します。

いわば百姓の強訴(ごうそ)・越訴(おっそ)に押される形で、

藩や幕府の復興政策は具体化していた

と考えられます(水本邦彦「人と自然の近世」『環境の日本史4』)。

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また、
被害の著しい大名・旗本領は、
替地によって幕領化されました。

関東郡代となった伊奈忠順(いなただのぶ)は、

自ら巡検し、百姓らの訴えを直接聞いて、

資料や文書を提出させます。

酒匂川の修築では、

幕府は、伊奈の見分をふまえ、

大名普請のほか、被災地から一人一日銀一匁五分で人夫を集め、

災害復興と同時に、被災者救済事業も行っています。

伊奈は、同六年九月、

江戸の勘定奉行・荻原重秀の屋敷で行われた内談において、

富士山東麓の村々の代表三名を同席させる

異例の措置を取りました。

そこで、人夫の賃銀は

二匁五分に上がり、砂除金の支給も正式決定しています。

これらが

「住民たちにどれほど明るい希望を与えたかは推測に余りある」(永原慶二『富士山宝永大爆発』)とされ、

後に伊奈は、神社の神に祀られました。

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▼世論政治、民衆知、実践知の時代

「三年の貯えなきは、国に非ず」

近世の飢饉記録や政道論によく引用される、

儒教の「礼記王制」に見える一節ですが、

「士の本意にも、民を豊かにする事必然たり」と述べたように、

上に薄く下に厚い「仁政」を志向しました。

光政は、自らの「遺言」(一六八二)においても、

上記の礼記の一説を引いて、

一年の貯えもない藩の現状を率直に反省しています(菊池勇夫ら『展望日本歴史15』)。

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仙台藩儒者芦東山(あしとうざん)も、
上記と同じ礼記の引用から、
備蓄の必要性などを藩に「上書」(一七五四)しています。

当時、東山は、

藩の重臣と対立して蟄居の身でしたが、

「御政治に益」ある考えは農民でも商人でも上申せよ、

との藩主の命があったため、

提言したのです。

同じく、西磐井郡の大肝煎(おおきもいり)大槻丈作も、

藩に対して提言し、

大槻は、彼ら「草野の言」を聞こうとする藩政は

「御盛世の基」であると述べて、

下からの意見をくみ取ろうとする藩の方針を高く評価しています(一八一一)。

こうした、藩士のみならず、

庶民からも献策を求めるような動きは、

江戸後期に全国的に確認できます。

上述の被災の訴願(訴訟と請願)の制度とともに、

江戸時代とは、

意外にも「世論政治の時代」でした。

各地における紛争や利害や意見をさまざまに調整し、

一定の合意に導くためには

「民衆知」「実践知」の活用を不可避とするような、

新たな政策形態が出現した時代であった

と考えられます(平川新『全集日本の歴史12』)。

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さらに、
幕府や藩政だけでなく、

民間における飢饉救済も、当時一般化していました。

大坂で出版された『仁風一覧』(一七三五)には、

西国・中国・四国・五畿内で飢饉救済に協力した

三七二九〇人の名前が一覧化されています。

同書によると、

大坂では、じつに二千両超を拠金する商家もあり、

また、一両に満たない額も少なくなく、

町としてまとめて拠出する場合もあったことが分ります(北原糸子『都市と貧困の社会史』)。

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その他にも、
一八世紀前半の荒川大洪水のとき、

川越藩領の名主奥貫友山(おくぬきゆうざん)は、

多額の借金をしてまで救済事業を行いました。

飢人施行、食料の貸付・給付ばかりでなく、

道普請や造林などの、復興や災害対策、

被災者救済の事業までをも行っています(以下、渡辺尚志『日本人は災害からどう復興したか』参照)。

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けれども、

そうした恩を施した村民から、

友山はかえって

ねたみや恨みを買ってしまう場合があったといいます。

それでも、友山は、救済する側の無意識の驕りや見下しを注意し、

その無意識の驕りを敏感に感じる、救済される側に対する、心理的で、

細やかな配慮を行う必要があることを書き残しています。

また友山が

自らの子孫のために残した言葉によれば、

こうした多額の費用を投じた救済事業の結果、

自らの家は傾き、妻や子にも恨まれ、

また教諭した村民からかえって妬みをかうこともあった

ことを述べた上で、

「人情の変、恐るべし、々々(人の心の変わりようは、まことに恐ろしいものである)」。

しかしながら、

「身を殺して仁をなす」というではないか。

「仁を行うとは、道を行うことである。…悪事を行って天国に行けるとしても、悪事は行ってはならない。

善行をおこなって地獄に生まれ変わるとしても、

善は行うべきである。

自分の身を大事に考えて行動を決めるというのは、

君子のすることではない。」(「大水記(おおみずき)」現代語訳『日本農業全書67』)。

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こうした、

震災や災害に関する記録や教訓の多くは、

江戸時代には、役人や武士ではなく、むしろ百姓たち自身の手で書かれました。

これには、

寺子屋などが十八世紀後半に全国的に広がることの影響も大きかったと考えられますが、

しかし、安政地震津波(一八五四)の翌年には、

志摩郡南張(なんばり)村(現鳥羽市)の庄屋岩田市兵衛は、

次のように記しています。

「…昔からの言い伝えによれば、

地震のあとには必ず津波が来るとあり、

心がけのよい者は早ばやと津波に備えたが、

中には油断した者も多い。

…今から百五十年以前の宝永四年に、このような大地震津波があったという記録の控えが、

他村や鳥羽藩にはあると聞くが、

当村には何の覚書も残されていなかった。

よって今度の地震津波について

詳しく記録を残しておくことにする。」(「大地震津波実記控帳」現代語訳、日本農業全書66)

つまり、記録の有無こそが、被害の大小を分けていた。

そうした先覚的な意識が、

百姓らに、未来を見すえた記録や教訓を残させていた、

と考えられます(倉地克直「津波の記憶」『環境の日本史4』)。

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先年の東日本大震災で注目された、

平安期の貞観地震(八六九)の記録によれば、

当時の清和天皇は、

人民に何の罪があろう、

「責めは深く予にあり」とし、

被災者を救うこと、「朕親(みずか)ら観るがごとくせよ」

と詔しています(『日本三代実録貞観11年9月7日条、現代語訳)。

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また
「聞くところによれば、

陸奥国境において地震が最も激しく、津波が猛威をふるって憂いをなし、

城や家が崩れて災いをなしたようである。

百姓すなわち人民に何の罪があって災厄をこうむるのであろうか。

予は自失し、恥じて懼れるばかりであり、責任は深く予にある。

今、使者をつかわして恩恵を施し、使者は、現地の国司と共に、

民であれ、未だ朝廷に服していない蝦夷であれ、

区別することなく、つとめて自ら現場にのぞんで慰め、

死者は皆丁重に葬り、生存者には救済を与え、

被害の甚大な者には租税を徴収せず、

家族のない者や孤児、困窮して自立できない者には、

その在所において事情をくみとって、厚い支援を行うべきである。

つとめて憐みと恵みを尽くすこと、朕みずからが観ているごとくせよ。」



古来日本の歴史は、

災害や被災者とともにあり、

そな苦難や困窮を他人事としない、

「災害対応型社会」の歴史であったと評されます(平川ら『日本列島地震の2000年史』)。

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現在、
学校や大学では、

西欧啓蒙思想については授業で詳しく教えています。

ともすれば、

西欧に匹敵する高度な思想や哲学は、

日本には生まれなかったと考えがちです。

しかしながら、

上記に見たように、

震災対応においては、

西欧では「文学的政治学」的な支配、

非実践的で、全体主義的な政治体制をもたらしたルソーらの啓蒙思想と、

かたや

江戸期の「世論」や「民衆知」

「実践知」による救済を導き出していた

日本における有名無名の人々と、

今、いったい

どちらの言動に深く学ぶべきなのかは、

現今では、

もはや自明のことではないかと思われます。

また、このことは、

現今でいうならば、

一部の思想家や天才的な哲学者よりも、

むしろ、健全な利害感覚を持った

多くの個人の個別的な行為の積み重ねに

深く学ぶべき時代であることを、

よく示している

と言えるのではないでしょうか。

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