かつて誰もが信じていた地獄や天国は、
近代科学の進展と共に消え去りましたが、
わが国の歴史上、「地獄」の場景が現されたのは『日本霊異記』(平安初期)からと言われます。
同書では、鳥の卵を獲ることを業とする罪深い男が、兵士(じつは地獄の役人)に連れられ、麦畑に行くと、そこは炭火の畑で、男は大やけどをして死ぬ。
その炭の畑は「山の中」にあり、「誠に知る。地獄は現在(※実在)することを」とあります。
古代の日本の地獄は、山の中に実在したのであり、
柳田国男は、死者は村から離れた「山のふもと」に葬られ、その霊魂は山の高所にとどまり、子孫を見守っている、と述べました。
また、死者の霊は、本人や一族の罪業から地獄行きとなるが、しかし子孫が善行を積めば、清らかな霊場に送られ、逆に供養を怠れば、地獄に行き、恨んで災厄をもたらす。
これが日本人の平均的な霊魂観や他界観(五来重)とされますが、
仏教では、世界を十に分けて「十界」とよびます(仏・菩薩・緑覚・声聞・天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)。
最上界が、仏の世界であり、最下層が、地獄となる。法華経では「一つの界は、その中に十界を具えている」と説き、
仏にも地獄があり、畜生にも仏界がある。
当然それは人間界にもあり、地獄や仏は、自分の中に存在する。
それゆえ、自らの境遇を、仏とするのか、地獄とするかは、じつは本人の心がけ次第であり、
仏であれ、人や餓鬼であれ、地獄と救済は、みな平等に訪れる。
自らが穢れと悪に満ちた罪人であると自覚するなかで、仏力によって「無上大涅槃」に導かれる。
いっぽう、自己の悪に無自覚で、反省のない者は救済されず、「非人」すなわち最下層の被差別民に堕してしまう(平雅行)。
親鸞は、人間は全て罪人とする「穢悪群生(えおぐんじょう)」の自省の有無こそが人間の価値を決定すると述べた。
つまり、当時の社会的で、一般的な身分観や穢悪視とは異なる、人間的な内実による平等性、
すなわち信仰の下の平等の局面を打ち出したと考えられます。
けれども、この地獄の平等性や救済は、現代では消滅しました。
20世紀モダニズム文学の旗手T・S・エリオットによれば、
近代の人間中心主義(ヒューマニズム)の「集団的道徳」では、
「命ある限り人生を最大限享受せよとか、あらゆる経験の機会を逃すなとか…現世的な利益だけのための福音しか信じない人間」から成り立つ社会になる。
しかし「地獄に威厳がないとは、天国にも威厳がないこと」であり、「それはそれなりに見事な地獄である」
人間の栄光は「救済の可能性」にあるが、しかし、地獄を失った現代人にそれはない。
いぜんとして「人間は完全になり得る…無限に進歩できる」と信じているけれども、
人間は誰であれ不完全であり、到達できない「絶対のもの」がある。
そこに到るには、特定の信仰というよりも「感性の正統及び伝統の感覚」、「無数の人々の死せるあの世界」に我々がどれだけ近づけるかにかかっている
とエリオットはいい、地獄を失い、天国をも失った我々が、このうえ、歴史伝統の感覚をも忘却するならば、
人間の栄光も、救済も、すべてみな「平等に失う」ことになるのかもしれません。