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天下思想と神国論の効用

歴史のことば劇場41


5世紀後半、雄略天皇

治天下大王」という表記(江田船山古墳出土太刀銘、稲荷山古墳出土鉄剣銘)によって歴史に登場しますが、

この「天下」とは、漢語本来の意味では「全世界」や「宇宙」のことを意味します。

たとえば、近世の信長や秀吉の「天下統一」は、日本列島の統一をさしますが、

古代の「天下」は、

世界の中心に位置する中華皇帝が、至上の「天」の命を受け、

広大無辺な世界を支配するとの「天下」思想を表す言葉でした。

このため「治天下大王」と雄略天皇が称したのは、

本来の「天下」の意味を読み換えて、

日本列島が「天下」であると主張し、

中国の天下とは異なる独自の天下観西嶋定生を表明したものと考えられます。

また「治天下……」を、音読ではなく

(あめ)下治(したしら)しめしし(又は、治めたまふ)」と訓読の日本語でむならば、

高天原の神話世界にも通じるとされ、

古事記は、初代神武天皇

天下(あめのしたのまつりごと)」を行ったと、天つ神の動向と地上の天皇の事績とを明瞭に区別しており、

それらは「天下」思想の確立や定着を示している神野志隆光といわれます。

第1回遣隋使は、大王について

「姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)」「天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」(隋書)などと隋側に伝え、

これが次回の“対等外交”では「日出る処の天子」の主張になり、

さらに「池辺大宮天下天皇(用明)」「小治田大宮天下大王天皇(推古)法隆寺金剛薬師如来光背)

などの表記も当時継続的に現れるように、

天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)と世界観は、

8世紀の記紀律令法の「御宇天皇(あめのしたしろしめすすめらみこと)」へと実質的に受け継がれると考えられます。

ちなみに、近年の学校教科書では、この「治天下」の思想の独自性を教える内容は見当たらず、

たしかに、雄略天皇らは、宋の皇帝に朝貢して「倭王」の地位や領土を認められ(冊封)百済新羅任那などの軍事指揮権を意味する「安東大将軍」の称号を得ますが、

その反面、中華皇帝の権威を利用し、朝鮮支配の称号を得た上で、

半島南部も「中国の天下とは別に、日本列島の支配領域」と主張していた(大津透)と考えられる。

古来、日本と中華の君主は対等であり、

外国に「臣服」しないとの外交の基調を創ったのは聖徳太子である、

しかるに、足利義満の対明外交は「外国の臣」たる臣従の文書を出したと批判したのは、

瑞渓鳳(ずいけいしゅうほう)の『善隣国宝記』1466でした。

同書の序は、冒頭に

「大日本は神国なり」とあるように、南北朝期の『神皇正統記』などから構成され、

徳川家康による伴天連追放令1613にも、この国宝記な序とほぼ同文が見えます。

秀吉も、日本は神国(※神仏の支配する国)であるから、爵位や長幼、夫婦の人倫関係がよく保たれると外国に宣言し1597

家康は、君臣の忠義、覇国相互の「交盟」は、神仏への「誓」の信に依ると宣します。

彼らはキリスト教勢力の侵略を防ぎ、

天下一統の武威を誇る一方で、

「神国」イデオロギーに拠らなければ、その統治を維持、貫徹できないことを知っていました高木昭作

また、神国という中世以前からの伝統的で、宗教的な独立思想が、その後の国際状況ばかりか国内状況への対応をも決定づけました。

当時、イエズス会士が日本の禁教令の根本的な理由は「国家理性」にあると見た(高瀬弘一郎)ように、

「神国」の維持・発展は、統治者自身に優越し、権力の恣意をも拘束し、

国家の利害や高度な目的合理性にあらゆる階層が服従する、

いわゆる「国家理性」が、「神国」「天道」の論理に従ってもたらされた、と考えられるようです。