doi_iku’s blog

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日本史上の二元論について//⊿


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歴史のことば劇場⑧
「両建て」という思想

近時、皇族の方が会見で、年号ではなく、西暦で発言され、
保守論客がそれを雑誌でいたく憂慮したところ、
新聞の一面に、保守派に「衝撃が走った」「困惑」などと
揶揄(やゆ)するかのような記事が出ました(朝日7/30)。
かつて評論家の福田恆存
元号と西暦、両建てにすべし」(評論集9)と論じましたが、
福田によれば、
元号を廃止させ、西暦一本にする運動の動機は、
一つは、近代化や西欧化、国際化などに便乗した画一主義、便宜主義であり、
もう一つは、
天皇制の廃止ないし軽視の意図があるといっています。
後者の意図に、皇族方は恐らく同意しないし、
前者の画一主義や統制主義も、
「馬鹿に附ける薬は無い」(福田)のですが、
では、年号と西暦、国内法と国際法
あるいは内と外、自と他、東洋と西洋などの双極を
「両建(りょうだ)て」にして
一方を斥けず、両方の長所をバランスよく活かす
日本の「歴史伝統」とは
いったいどこから来るのでしょうか。
それは国史学者の中村直勝(なおかつ)によれば(著作集6ほか)、
日本に入った儒教とは、
文字一点張りのインテリ向けであったが、
仏教は、仏像や曼荼羅を使って
文字の読めない大衆にも
広く印象的に語りかけた。
とくに平安期の真言宗天台宗は、
一切のものが二元世界にあるとし、金剛界(こんごうかい)と
胎蔵界(たいぞうかい)との
二界を想定した。
この金剛・胎蔵両界の双方には、
地・水・火・風・空
の五元の要素があり、
この両界五元の配合によって、
風雨、乾湿、善悪、好悪、
あるいは
上下、左右、陰陽、月日、春秋、大小、長短、白黒というように、
この世界はすべて二つの相対からなる
と説いた。
この二元的思考が長らく人心を支配し、
天皇と摂関、天皇と院、
叡山と園城寺、近衛と九条、
平家と源氏、
といった二元論となり、
鎌倉期には、
京の朝廷と東の幕府、
将軍と執権、公家と武家
南都と北嶺と、
そうした二元的なあり方、二元性こそが
政治本来の姿と考えられた。
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そして、
持明院統大覚寺統両統迭立(てつりつ)も、
金剛・胎蔵界のごとく、
あい反目する両面と見るべきでなく、
「両統が結局は唯一の皇統に御座(いま)す、
という更に高次の表現」における「金胎一如(こんたいいちじょ)」の世界である。
つまり、
中世や南北朝は、
分裂や断絶の時代ではなかった。
金胎両界の分立・相補の時代であり、
その並び立つ二元的世界を、
高次から「皇統」が統合していた。

この中村の主張は、
重要な提言(熱田公)とされ、
王法仏法相依論(おうほうぶっぽうそういろん)、
すなわち、権力の俗界と仏神の聖界とは対立せず、
相互補完するとの中世の正統思想や、
現在の研究上の通説、
権門体制論(けんもんたいせいろん)(黒田俊雄)にも通じているのは明らかです。

「一見矛盾するものを互いに釣り合わしてきたからこそ、健康な人間は晴れ晴れと世を送ることができたのである」。
平常人の感覚は「立体的」である。
「二つのちがった物の姿が同時に見えていて、
それでそれだけよけいに物がよく見えるのだ」(チェスタトン
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この矛盾を決して矛盾としない
「両建て」の思想の効用は、
神仏習合、朝廷と幕府、
伝統と近代、戦前と戦後など、
あらゆる現象に発揮されていたようです。
またそれをさらに高次から
「皇統」が統合して、
人々の感覚は、
より「立体的」となったのではないか。
そして
この並び立つ二元論によって
広大で、
多様な様相の世界に、
分断や混沌というより、
調和や呼応、融合といった
より高い境地を
日本人にもたらしていたのではないか。
さらに、
矛盾対立がむしろ
時代を前へと進めて行ったのであり
そうした独特な、
日本的な二元論こそが
歴史的な発展の基礎となっていた、
と考えられるのではないでしょうか。
「ころあいのよさは
けっしてあいまいではない。
完璧さに負けず劣らずはっきりしている。
中間点は極点と同じく固定しているのだ。」
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