doi_iku’s blog

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言霊(コトダマ)と譲位👑✴🌠

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歴史のことば劇場⑨
言霊と皇位継承

天照大神や神話をめぐって論争したことは有名ですが、
この論争は、
日本語のあり方についても行われました。
宣長は、
中国由来の漢字に対して
日本の仮名の優位を証するのに、
五十音という「天地の純粋の音」による、
音声の秩序の存在を指摘しました。
これに対して、
秋成も、
五十音の霊妙を認めながらも、
国語の背後にある「自然の妙法」
すなわち「人工のわたくし物」を超える
自然の無数の声の世界の存在に
注目します(川村湊)。
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いっぽう、万葉集
言霊信仰によって解釈した
富士谷御杖(ふじたにみつえ)は、
言葉とは、
心に思うことをそのまま直言することではない、
抑制し、むしろ「反(うら)」を表現する倒語(とうご)の方法によって
言霊は宿ると考えました。
例えば、
人間の「欲」を現実の世界に置けば「卑しきもの」になるが、
神の世界では
「いと尊き」ものとなる。
優れた言葉や和歌は、
その背後にある霊的で、聖なる世界に通じており、
幽かにそれを現すがゆえに言霊は宿る、
倒語により、現代的にいえば
現実を超えて文学の表現となると考えたわけです。
要するに、現実を超える神々や祖霊の世界に幽かに通じるのが
倒語などに見える言霊を宿した和歌や神話の言葉であり、
またそうした反現実の言霊を持つがゆえに、
かえって現実に人を動かす力を持つ
という考え方なのでしょう。
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また、宣長は、
大著・古事記伝を著す前に、
祝詞宣命(せんみょう)の研究に没頭しますが、
祝詞宣命が漢文では記されていないのは、
神や天下の人々に通じるためであり、
それは和歌と同じく、
祝詞も、神に申し、
宣命も、百官天ノ下ノ公民に、
宣聞(ノリキカシ)しむる物にしあれば、
神又人の聞(きき)て、心にしめて感(カマ)く(感じ入る)べく…
一(ひと)もじも読ミたがへては有ルべからざるが故に、
尋常(ヨノツネ)の事のごとく、
漢文ざまには書キがたければ也」(全集7)
と論じました。
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古来、譲位儀礼では、
譲位される天皇宣命に従って
神器渡御は行われ
「新帝」は誕生しました。
律令制の最上位の法も、
「明神(あきつみかみ)と御宇(あめのしたしろしめす)日本の天皇(すめらが)が詔旨(おほみこと)らまと云々、……
咸聞(ことごとくききたまへ)」(公式令(くしきりょう)1)
とあるように、
「宣(の)る」との国語の音声命令によって
発せられるものでした。
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つまり、
宣命には「生命(コトダマ)」
「霊的な力があるとの観念」(早川庄八)があり、
即位、皇太子冊立、改元大赦
摂関・大臣ら任命、叙位、僧綱任命、大嘗祭節会など
朝廷の枢要な累代の儀礼は、
ことごとく宣命を中心的な儀礼として
遂行されました。
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歴史的に見れば、
王朝儀礼による国家統合、
国民統合は、
言霊を宿す音声命令である宣命
つまり神々や祖霊、
自然の「無数の声の世界」に通じる
天皇の詔(みことのり)によって
達成されていたといえます。
にもかかわらず、
昨年の皇位継承の特例法をめぐる言説や制度化は、
周知のように“譲位”との歴史用語とともに、譲位宣命を、事実上、
停廃させました。
儀礼とか、その伝統とかを過小評価してはなりません。
一つの社会が存続するのは、
それが無条件に一定の価値と結び付けられているからで…
それが受け入れられるためには、感覚的側面を持っていなければならない…
その感覚的側面が理性の掘り崩しからそれを防御する…
社会が儀礼に然るべき地位を与えている…
私は市民として、民族学者として、それを存続させる義務を負っていると信じている」
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かの西欧学者に言われるまでもなく、
われわれ日本国民もまた、
憲法学者や官僚、
マスコミによる「掘り崩し」から
「価値を防御する義務」
を負っています。
要するに、
硬直化した憲法解釈という、
いわば現代の「漢意(からごころ)」「人工のわたくし物」を守ろうとするのではなく、
儀礼や歴史伝統という
「形式的ではない、実質的な憲法」(小嶋和司)に従って、神々や自然の無数の声の世界、
言霊の「感覚的」価値を守り、
真の国民統合をはかる「義務」があるのではないでしょうか。
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