そして、これら三党は、
天皇を「元首」として位置づけることに
基本的に賛成しました。
共産党は
そもそも天皇制の存在しない民主主義をめざす立場をとっていました(読売新聞政治部『基礎からわかる憲法改正論争』)。
要するに、
各党によって大きな違いがあるようです。
しかしながら、
現
憲法の昭和二一年における制定過程を調べた研究者によれば、
両者を異なる存在とするような考え方は、
元首と象徴とは、二分しない、
異なる存在ではないとは、
いったい
どういうことでしょうか。
いわゆる
同年二月二日付で出されたマッカーサー三原則とよばれる、
総司令部による改憲案の
「必須要件」に遡ります。
その第一には、
「天皇は、国家の元首の地位にある(at the head of the State)。
皇位は世襲される。
天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする」
とありました。
「百万人の軍隊と数十万人の行政官」が必要になると訴えて、
「天皇は日本国民統合の象徴であり、天皇を排除するならば日本は瓦解するだろう」
などと述べています。
「天皇制を修正し、儀礼的な元首(the ceremonial head of the State)とすることによって、国民主権のもとで立憲君主制を樹立する」、
「天皇は、朕は国家なりということではなく、国の象徴となる。
天皇は、国民の間の思想、希望、理念が融合して一体化するための核、あるいは尊敬の中心として存続はするが、
太古からの邪悪な指導者によって国民を悪事に駆り立てるために利用されてきた、
かの神秘的な権力は、永久に奪われる」
などとありました(高柳賢三ら『日本国憲法制定の過程Ⅰ』)。
要するに、
象徴天皇については、
君主制と一致するどころか、
「国民の間の思想、希望、理念が融合して一体化する核」
「尊敬の中心」という内容によって、
説明されていました。
さらに、二月二一日、
幣原首相と三時間も会見したマッカーサーは、
「吾輩は日本の為めに誠心誠意図つて居る。
天皇に拝謁して以来、如何にもして天皇を安泰にしたいと念じている」、
「日本案との間に超ゆ可らざる溝ありとは信じない」、
「主権在民と明記したのは、従来の憲法が祖宗相承けて帝位に即かれるといふことから進んで国民の信頼に依つて位に居られるといふ趣意を明かにしたもので、
かくすることが天皇の権威を高らしめるものと確信する」
などと、滔々と「演説」しました(芦田均日記一)。
マッカーサー三原則の「元首」は実権なき君主であり、
元首と訳すのはおかしい
という批判もあります(古関彰一ら『岩波講座日本通史20』)。
しかし、その反対に
「普通に元首の意味で使われた」とする見方も
いぜんとして有力です(渡辺治『戦後政治史の中の天皇制』)。
また、
元首ではなく
象徴に過ぎない等の論法は、
当時の憲法の制定過程や制定意思をふまえれば、
新渡戸稲造の一九三一年の英文著作『日本』には
「天皇は、国民の代表であり、国民統合の象徴」とありました。
戦後は、最高司令官付軍事秘書フェラーズ准将が「象徴」との語を用い、
これが前述したマッカーサーの秘密電報につながります(中村政則『象徴天皇制への道』)。
したがって、
「象徴」として位置づける点では、
戦前の帝国憲法の天皇像も、
戦後の天皇像も、
じつは大きな違いはなかったのであり、
むしろ後者は、戦前からあった
「国民統合の象徴」としての意味を引き継ぐものでした。
また、
じっさいに「象徴」を憲法草案に書いたのは、
二十六歳のプール海軍少尉と、
彼より少し年上のネルソン陸軍中尉であり、
彼らは、バジョットの『イギリス憲政論』を参照していたと考えられています。
「国民は党派をつくって対立しているが、君主はそれを超越している。君主は表面上、政務と無関係である。そしてこのために敵意をもたれたり、神聖さをけがされたりすることがなく、神秘性を保つことができるのである。
またこのため君主は、相争う党派を融合させることができ、教養が不足しているためにまだ象徴を必要とする者に対しては、目に見える統合の象徴となることができるのである。」(イギリス憲政論)
ただし、彼らが参照したのは
一八六七年のバジョットの原書ではなく、
一九二八年以後の「世界の古典」の改訂版であったと推測され、
後者には
著名な英国外交官バルフォアの解説文が巻頭に付いています。
そしてプールは、
後年のインタビューで、
じつはバルフォアは、
この同憲章の元となったバルフォア報告を作成した代表者でした。
その同憲章の前文には、
国王は「(英国連邦)構成国の自由な結合の象徴」とあり、
このバルフォアによる英国憲政論の解説の中にも次のようにあります(深瀬基寛訳)。
英国の王制は、
バジョットのいう民主的性格を隠すもの(「擬制(ぎせい)された共和国」)ではなく、 かえってその性格を顕わにするものである。
「国王は一党派の指導者でもなく、一階級の代表者でもない。
一国民の元首である―
実は、多数の国民の元首である。
彼は万民の王である」
「我が国王は、その皇統と職務により、我が国民の歴史の生きた代表者である」。
要するに、
国王とは元首であり、万民の王であり、
ということになります。
そして、これら英国流の君主論を参照したプールによれば、 「象徴」とは「精神的な要素を含んだ高い地位」であり、
「それは単なるお飾りであってはならない」
「天皇は、直接的には政治上の権限は持たないけれど、 ある重要な役割を持った、
国民に尊敬される立場にある」
と述べています(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』)。
なお、
単なる法による公権力の統制にとどまらず、
憲法を超えた社会全体や個々の利益に妥当する政治道徳性 の意味合いを持つ
という側面があります(長谷部恭男『続Interactive憲法』)。
このように考えていくと、
個々の多様性や世界観や自由を保障しながらも、
これらによる対立矛盾や混沌を超えて、
あるいは自由の体系などの「象徴」こそが、
これが、バジョット、バルフォア、プール、マッカーサー草案に共通する、大体の「象徴」の論理であろう と思われます。
じっさい、
「人民の自由意思によつて決めて貰つて少しも差し支へない」(木戸幸一関係文書、八月十三日)と言われ、 早くから同意していたと考えられます。
日本側が「国体の護持」の保障について連合国側に確認する応答をしたところ、
「日本国の最終的政治形態(The ultimateform of governmennt of japan)は、ポツダム宣言に従って、日本国民の自由に表明された憲法によって樹立される」とありました。
「人民の自由意思によつて決めて貰つて少しも差し支へない」と述べたのは、
この前日のバーンズ回答の趣旨をまさに受けたものであり、
「今となっては致方なし」として裁可されています。
このとき、米国製の憲法草案を天皇に奏上した幣原首相は、 「子々孫々に至る迄の責任である」と恥入り、
芦田厚相は、
暗涙(あんるい)を流しました(芦田日記一、昭和二一年三月五日)。
「今となっては致方なし」として改憲の勅語案を裁可されたわけですから(同)、 どれほどのものであったかは、
想像に余りあります。
同案の基調趣旨ともいえる
「自由と立憲主義と歴史の象徴」としての務めを果たされました。 事実上の元首として
国民に仰がれ続けたといえます。
上記の二一年三月六日、「憲法改正草案要綱」が発表されるに際して、幣原首相が天皇に拝謁し、 陛下の御意向を伺ったところ、
陛下自ら
「象徴でいいではないか」
と仰せられたという。
「この報に勇気づけられ、閣僚一同この『象徴』という字句を諒承することとなった。
ゆえに、これはまったく『聖断によって決まった』といっていいことである」
と、吉田は記しています。
吉田の回想は、
上述の芦田日記の「暗涙を流した」との記述とはまるで正反対のニュアンスのように見えますが、
しかし、
「…政府当局其レ克ク朕ノ意ヲ体シ必ズ此ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ」
吉田が回想しているように「聖断」に従うものであったかどうかはともかくとしても、
それ以後において、
昭和天皇の意向に反するどころか、むしろ意向に沿うものであったといえます。
占領中から、自らの「象徴」としての地位を、
と考えて実際に活動されていたことは、
現在では大方の研究者が同意するところとなっています(後藤致人ら『戦後史のなかの象徴天皇制』)。 したがって、
その真意は、
「自由と歴史、立憲主義」の象徴であると見ておくのが、
歴史的に見るならば
概ね妥当な理解といえるのではないでしょうか。
その宮沢による「八月革命説」とは、
上述した、昭和天皇が「人民の自由意思によつて決めて貰つて少しも差し支へない」として受け入れたバーンズ回答のうちの
「Theultimate form of governmennt」の記述を受けることによって、
したがって国体は変革し、
憲法上の「革命」が生じていた
日本国の「国体」の変革は、
実際は、上記のバーンズ回答を受け入れて、「人民の自由意思によつて決める」ことをいち早く認めた
天皇の「聖断」にもとづいて、「国体」は変革したことになり、
憲法上の「革命」が生じていたのだということになります。
しかしながら、
そうした宮沢の思惑や企図とは裏腹に、
論理的には、
昭和天皇の決断こそが、
宮沢の言う「国体」変革、
すなわち日本国憲法の成立に向けた
最初にして最大の起点であったと考えられ、
皮肉にもそれが八月「革命」説の論理的な帰結であり、
宮沢学説の歴史的な理解ともいえることになります。
では、宮沢の八月革命説が、
現在の研究において、どのように考えられているのか、
つまり、八月革命説をめぐる研究状況や、あるいは、
果たして国体は本当に「変革」し、憲法上の「革命」が起こっていたと考えてよいのかどうかなどについては、
もし希望者が多いようならば、
次回以降で、お話してみたいと思います。