doi_iku’s blog

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象徴とは「元首」であり「自由と歴史、立憲主義」の象徴👑✴🌠


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憲法改正天皇の地位


かつて、平成二五年七月に行われた参院選では、

自民党日本維新の会みんなの党(当時)が、憲法改正を選挙公約に掲げました。

そして、これら三党は、

天皇を「元首」として位置づけることに

基本的に賛成しました。

けれども、民主党(当時)と公明党は、

元首とすることは「必要ない」とする立場であり、

共産党

そもそも天皇制の存在しない民主主義をめざす立場をとっていました(読売新聞政治部『基礎からわかる憲法改正論争』)。

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要するに、
憲法上の天皇の地位に関する考え方には
各党によって大きな違いがあるようです。
しかしながら、
憲法の昭和二一年における制定過程を調べた研究者によれば、
「元首」としての天皇と、
「象徴」としての天皇を二分化したり、
両者を異なる存在とするような考え方は、
占領軍や憲法執筆者の間には存在しなかった
と考えられています(田中英夫憲法制定過程覚え書』)。

元首と象徴とは、二分しない、
異なる存在ではないとは、
いったい
どういうことでしょうか。
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いわゆる
象徴天皇制度の原点は、

同年二月二日付で出されたマッカーサー三原則とよばれる、

総司令部による改憲案の

「必須要件」に遡ります。

その第一には、

天皇は、国家の元首の地位にある(at the head of the State)。

皇位世襲される。

天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする」

とありました。

これ以前にも、

マッカーサーは、天皇を戦犯として起訴すれば

「百万人の軍隊と数十万人の行政官」が必要になると訴えて、

不起訴を事実上確定させた、

有名な昭和二一年一月二五日付アイゼンハワー陸軍参謀総長宛て機密電報において、

天皇は日本国民統合の象徴であり、天皇を排除するならば日本は瓦解するだろう」

などと述べています。

また、民政局が改憲案をマッカーサーに出した際の説明(二月十二日)によれば、

天皇制を修正し、儀礼的な元首(the ceremonial head of the State)とすることによって、国民主権のもとで立憲君主制を樹立する」、

天皇は、朕は国家なりということではなく、国の象徴となる。

天皇は、国民の間の思想、希望、理念が融合して一体化するための核、あるいは尊敬の中心として存続はするが、

太古からの邪悪な指導者によって国民を悪事に駆り立てるために利用されてきた、

かの神秘的な権力は、永久に奪われる」

などとありました(高柳賢三ら『日本国憲法制定の過程Ⅰ』)。

要するに、

象徴天皇については、

君主制と一致するどころか、

「国民の間の思想、希望、理念が融合して一体化する核」

「尊敬の中心」という内容によって、

説明されていました。

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さらに、二月二一日、

幣原首相と三時間も会見したマッカーサーは、

「吾輩は日本の為めに誠心誠意図つて居る。

天皇に拝謁して以来、如何にもして天皇を安泰にしたいと念じている」、

「日本案との間に超ゆ可らざる溝ありとは信じない」、

主権在民と明記したのは、従来の憲法が祖宗相承けて帝位に即かれるといふことから進んで国民の信頼に依つて位に居られるといふ趣意を明かにしたもので、

かくすることが天皇の権威を高らしめるものと確信する」

などと、滔々と「演説」しました(芦田均日記一)。

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ただし、近年では、

マッカーサー三原則の「元首」は実権なき君主であり、

元首と訳すのはおかしい

という批判もあります(古関彰一ら『岩波講座日本通史20』)。

しかし、その反対に

「普通に元首の意味で使われた」とする見方も

いぜんとして有力です(渡辺治『戦後政治史の中の天皇制』)。

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また、
上記の民政局による「立憲君主制」と明言する、
マッカーサーへの説明から見ても、

元首ではなく

象徴に過ぎない等の論法は、

当時の憲法の制定過程や制定意思をふまえれば、

まず成り立たない類の議論である

と考えられます。


▼象徴の由来とその真意


そもそも「象徴」という語は、

戦中から駐日大使だったグル―や国務省知日派の間で使われ、

新渡戸稲造の一九三一年の英文著作『日本』には

天皇は、国民の代表であり、国民統合の象徴」とありました。

戦後は、最高司令官付軍事秘書フェラーズ准将が「象徴」との語を用い、

これが前述したマッカーサーの秘密電報につながります中村政則象徴天皇制への道』)

したがって、

「象徴」として位置づける点では、

戦前の帝国憲法天皇像も、

戦後の天皇像も、

じつは大きな違いはなかったのであり、

むしろ後者は、戦前からあった

「国民統合の象徴」としての意味を引き継ぐものでした。

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また、

じっさいに「象徴」を憲法草案に書いたのは、

二十六歳のプール海軍少尉と、

彼より少し年上のネルソン陸軍中尉であり、

彼らは、バジョットの『イギリス憲政論』を参照していたと考えられています。

「国民は党派をつくって対立しているが、君主はそれを超越している。君主は表面上、政務と無関係である。そしてこのために敵意をもたれたり、神聖さをけがされたりすることがなく、神秘性を保つことができるのである。

またこのため君主は、相争う党派を融合させることができ、教養が不足しているためにまだ象徴を必要とする者に対しては、目に見える統合の象徴となることができるのである。」(イギリス憲政論)


ただし、彼らが参照したのは

一八六七年のバジョットの原書ではなく、

一九二八年以後の「世界の古典」の改訂版であったと推測され、

後者には

著名な英国外交官バルフォアの解説文が巻頭に付いています。

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そしてプールは、
後年のインタビューで、
「象徴」とは一九三一年のウェストミンスター憲章によるものと答えており、
じつはバルフォアは、
この同憲章の元となったバルフォア報告を作成した代表者でした。

その同憲章の前文には、
国王は「(英国連邦)構成国の自由な結合の象徴」とあり、
このバルフォアによる英国憲政論の解説の中にも次のようにあります(深瀬基寛訳)。

英国の王制は、
バジョットのいう民主的性格を隠すもの(「擬制(ぎせい)された共和国」)ではなく、
かえってその性格を顕わにするものである。

「国王は一党派の指導者でもなく、一階級の代表者でもない。
一国民の元首である―
実は、多数の国民の元首である。
彼は万民の王である」
「我が国王は、その皇統と職務により、我が国民の歴史の生きた代表者である」。

要するに、
国王とは元首であり、万民の王であり、
自由と立憲主義と歴史の「象徴」である、
ということになります。

そして、これら英国流の君主論を参照したプールによれば、
「象徴」とは「精神的な要素を含んだ高い地位」であり、
「それは単なるお飾りであってはならない」
天皇は、直接的には政治上の権限は持たないけれど、
ある重要な役割を持った、
国民に尊敬される立場にある」
と述べています(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』)。

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なお、
立憲主義とは、近年の憲法学説に従えば、
単なる法による公権力の統制にとどまらず、
憲法を超えた社会全体や個々の利益に妥当する政治道徳性
の意味合いを持つ
という側面があります(長谷部恭男『続Interactive憲法』)。

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このように考えていくと、
個々の多様性や世界観や自由を保障しながらも、
これらによる対立矛盾や混沌を超えて、
社会の利益を実現する立憲主義、政治道徳性、
あるいは自由の体系などの「象徴」こそが、
元首であり君主であり天皇である――

これが、バジョット、バルフォア、プール、マッカーサー草案に共通する、大体の「象徴」の論理であろう
と思われます。
じっさい、
敗戦直前のポツダム宣言受諾のさい、
天皇統治について、
「人民の自由意思によつて決めて貰つて少しも差し支へない」(木戸幸一関係文書、八月十三日)と言われ、
後の日本国憲法の原則、
いわゆる国民主権については
早くから同意していたと考えられます。

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また、終戦時のポツダム宣言の受け入れに当っては、
日本側が「国体の護持」の保障について連合国側に確認する応答をしたところ、
8月11日のバーンズ国務長官の解答では、
「日本国の最終的政治形態(The ultimateform of governmennt of japan)は、ポツダム宣言に従って、日本国民の自由に表明された憲法によって樹立される」とありました。

つまり、昭和天皇
「人民の自由意思によつて決めて貰つて少しも差し支へない」と述べたのは、
この前日のバーンズ回答の趣旨をまさに受けたものであり、
後に、天皇は、
昭和21年3月の総司令部による憲法案についても、
「今となっては致方なし」として裁可されています。

このとき、米国製の憲法草案を天皇に奏上した幣原首相は、
「子々孫々に至る迄の責任である」と恥入り、
芦田厚相は、
暗涙(あんるい)を流しました(芦田日記一、昭和二一年三月五日)。

そして天皇
「今となっては致方なし」として改憲勅語案を裁可されたわけですから(同)、
戦争に負けた相手の米国による憲法案によって、
天皇の受けた屈辱が
どれほどのものであったかは、
想像に余りあります。

けれども、昭和天皇
いったん憲法案を受け入れた以上は、
同案の基調趣旨ともいえる
「自由と立憲主義と歴史の象徴」としての務めを果たされました。
天皇は、
憲法学者らのいう「象徴にすぎない」などとする
天皇制軽視ないし無視の思惑を超えて、
事実上の元首として
国民に仰がれ続けたといえます。

なお、吉田茂『回想十年 1』によると、
上記の二一年三月六日、「憲法改正草案要綱」が発表されるに際して、幣原首相が天皇に拝謁し、
憲法改正に関するGHQとの折衝顛末を委曲奏上し、
陛下の御意向を伺ったところ、
陛下自ら
「象徴でいいではないか」
と仰せられたという。

「この報に勇気づけられ、閣僚一同この『象徴』という字句を諒承することとなった。
ゆえに、これはまったく『聖断によって決まった』といっていいことである」
と、吉田は記しています。
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吉田の回想は、
上述の芦田日記の「暗涙を流した」との記述とはまるで正反対のニュアンスのように見えますが、
しかし、
現実の憲法改正の「勅語」には次のようにありました。

「…政府当局其レ克ク朕ノ意ヲ体シ必ズ此ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ」

はたして、「象徴」との憲法の規定は、
吉田が回想しているように「聖断」に従うものであったかどうかはともかくとしても、
それ以後において、
「象徴」という憲法上の規定は、
昭和天皇の意向に反するどころか、むしろ意向に沿うものであったといえます。

じっさい、昭和天皇は、
占領中から、自らの「象徴」としての地位を、
憲法と同じく英国流の立憲君主制の延長上にある
と考えて実際に活動されていたことは、
現在では大方の研究者が同意するところとなっています(後藤致人ら『戦後史のなかの象徴天皇制』)。
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したがって、
日本国憲法上の「象徴」とは
やはり立憲君主たる「元首」のことなのであり、

その真意は、

「自由と歴史、立憲主義」の象徴であると見ておくのが、

歴史的に見るならば

概ね妥当な理解といえるのではないでしょうか。

ちなみに、現在の憲法学界では、

明治憲法の改正から日本国憲法成立に向かう憲法理論として通説的な位置にあるのは、

憲法学者宮沢俊義による「八月革命説」と考えられています。

その宮沢による「八月革命説」とは、

上述した、昭和天皇が「人民の自由意思によつて決めて貰つて少しも差し支へない」として受け入れたバーンズ回答のうちの

「Theultimate form of governmennt」の記述を受けることによって、

天皇主権の「国体」が変革し、

この瞬間に、

日本国は明治憲法体制ではなく「国民主権」の国へと変わった、

したがって国体は変革し、

憲法上の「革命」が生じていた

と考える学説のことです。

けれども、

こうした八月革命説の論理からすれば、

日本国の「国体」の変革は、

実際は、上記のバーンズ回答を受け入れて、「人民の自由意思によつて決める」ことをいち早く認めた

天皇の「聖断」にもとづいて、「国体」は変革したことになり、

憲法上の「革命」が生じていたのだということになります。

もちろん、宮沢の八月革命説に、

天皇の聖断や伝統的権威などを重視する姿勢は

まったくうかがえません。

しかしながら、

そうした宮沢の思惑や企図とは裏腹に、

論理的には、

昭和天皇の決断こそが、

宮沢の言う「国体」変革、

あるいは憲法上の「革命」、

すなわち日本国憲法の成立に向けた

最初にして最大の起点であったと考えられ、

皮肉にもそれが八月「革命」説の論理的な帰結であり、

宮沢学説の歴史的な理解ともいえることになります。

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では、宮沢の八月革命説が、

現在の研究において、どのように考えられているのか、

つまり、八月革命説をめぐる研究状況や、あるいは、

果たして国体は本当に「変革」し、憲法上の「革命」が起こっていたと考えてよいのかどうかなどについては、

もし希望者が多いようならば、

次回以降で、お話してみたいと思います。

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