doi_iku’s blog

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世間や庶民の思想(  ̄ー ̄)

新しい国史への招待49
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陸軍中将安達二十三(あだちはたぞう)は、
昭和17年11月、
第18軍司令官として
ニューギニア作戦に派遣されるが、
敵軍との圧倒的な物量差とともに、
飢餓やマラリアに苦しみ、
日本軍12万のうち
生還者約1万(大半は病人)という
凄まじい苦闘の末、
終戦を迎えた。
降伏後、
戦犯容疑者140名とともに
ラバウル収容所に入れられると
80キロあった肉体は
別人の如く痩せ衰えたが、
収容された部下と共に
炎天下の作業に従事した。
この間、
部下の容疑を晴らすため、何度も豪軍法廷にも立って証言したが、
22年4月、
彼自身、無期禁固の判決を受けた。
安達は、かねて司令官として
自決の覚悟をして
短刀と毒薬を用意していたが、
しかし、短刀は没収、
毒薬も湿気のため効能を失うが、
錆びたナイフを
密かに所持していた。
最後の容疑者
8名の帰国が許される通知を受けた後、
9月10日早朝、
安達は、収容所で日本に向って端坐し、切れぬナイフで割腹、
最後は頸動脈を圧迫するという
「異常な精神力」によって
自決した(山田風太郎『人間臨終図鑑』。
ただし角田房子『責任』は縊死とする)
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その遺書に曰く、
「小官は皇国興廃の関頭に立ちて…(部下に)人として堪え得る限度を遥かに超越せる
克難(こくなん)敢闘を
要求致候(いたしそうろう)。
之(これ)に対し
黙々之を遂行し
力竭(つ)きて花吹雪の如く
散り行く将兵を眺むるとき、
君国(くんこく)の為(ため)とは申しながら
其(その)断腸の思いは
唯(ただ)神のみぞ知る…
必ず之等(これら)若き将兵と運命を共にし、
南海の土となるべく
縦令(たとい)凱陣(がいじん)の場合と雖(いえど)も渝(かわ)らじ…」
いま
祖国の現状を前にしながら
「努力奉仕を敢えてせずして逝くことは私も相(あい)すまぬことと思ふ…
然(しか)し十万の陣没…
殉国の将兵の枯骨(ここつ)を此の地に残して
私が生きて還るが如きことは
到底出来得べきことではない…
之は理屈や是非得失を超越した思(おもい)であり…
詩や哲学も含まれては居るが
更に将帥としての動かすべからざる情熱信念である」(戦史叢書84)
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敗戦直後ならともかく、
二年をへて、
「おのれの責任を全うしたと見きわめてから自決したのはみごと」である(山田風太郎)。
また山田によれば、
「かかるみごとな進退を見せた日本軍の将官はきわめて稀である」
ともありますが、
エリートや将官はどうあれ、
庶民一般や世間の見方からすれば、
安達のような
戦死した、あるいは戦犯となった部下と運命を共にした
「理屈や是非得失を超越した」「情熱信念」の最期には、
ある種の感銘や畏敬の念を抱くのではないか
と思います。

そうした
庶民特有の道徳性、倫理観といえば、
広津和郎(かずお)『年月のあしおと』に見える
こんな逸話も思い出されます。
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和郎の父柳浪(りゅうろう)も
明治期の作家で、
一時は売れっ子だったが、
自然主義が流行するや売れなくなり、一家は貧窮のどん底に。
それまで口ごもりながら督促してきた大家からも
滞納分は半分に負けるから
出て行ってくれとまでいわれた。
これを聞いた柳浪は、
長く絶っていた筆をとり、
原稿をどうにか雑誌に売って、
全額払って出ていく。
ところが
家財を積んだ荷車が
門から動き出したとき、
病身老家主は老妻に助けられ出てきて、正装して頭を垂れて、
広津一家を見送った。
後日、家主は
「半分負けるなどと無礼なことを云ったのが恥かしい」とも言った。

息子の和郎も、翻訳で金を得て、
徴兵減免の納金に行く。
すると役所の兵事係は
小声で、
これは考えたほうがいい、
金がムダになるといって、
わざと大声で、
「書式不備」と言って却下した。
おかげで浮いた金で
和郎は魚屋に支払いに行くと、
「へえ~、お坊ちゃまが(原稿で)お金をお取りになった…
それは結構でした」
と喜んでくれた。
しかも五円の入金を帳簿につけると、残りの三、四十円はさっと棒を引いて
「これで結構です。後は…お祝いとして、簿引きにします…
ありがとうございました」。
酒屋、八百屋、米屋でも
「よくお忘れなくお届けくださった」と礼を言われ、
残金は請求されなかった。

ヒルディ・カン『黒い傘の下で』(桑畑優香訳)には、こんな話もあります。
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カンは韓国系男性を夫に持つ白人女性の研究者で、
米在住の韓国系住民51名に
日本統治時代に関する聞き取り調査を行った。
当初彼女は
これで総督府の圧制が明らかになる、そうした証言が集まると思っていた。
ところが
彼女の予想は裏切られた。

「私は日本人に敵意を感じたことはない」
「差別されたと思ったことはなかった」などの
意外な証言が集まった。
もちろん日本人の傲岸、野蛮行為の証言もあったが、
たばこ公社では、昇給や昇進は
「日本人の同僚とまったく同じ」に扱われた
との証言もあった。

また、日本に渡って、
ヤクザの親分の世話になり、
働きながら学校に行った朝鮮人の証言もあった。
同じような境遇の生活苦の朝鮮人学生を無断で同居させて、親分に怒鳴られたこともあったが、
しかし、「お前は本当に良いことをしている」といって
給料を上げてくれた。
彼は学校まで行かせてもらっているから、と昇給を断ると、
親分はその分は貯金して
後日全額くれた。
「お前には私のように終わってほしくない…
もっと勉強して高い教育をうけるんだ」。
彼は青山学院に進んだ。

   〇

トルストイの突然の家出や行き倒れのような死について論争した
有名な論争において、
白鳥が、リアリズムの立場から
「細君のヒステリイ」に原因を求めたのに対して、
小林は、トルストイの「思想」にその原因を見出しました。
この論争について
哲学者田中美知太郎は、
プラトンのいう
「条件因」と「本当の原因」との対立を例にあげながら、
「思想」を重視した小林の方を評価しました。
そして小林の「批評」という仕事は
「…細君のヒステリーに悩まされるような『人間らしさ』で人間を見るのではなくて、
天才のほとんど人間の限界を超えようとする…最高度の人間性を見、そこに一体感を見出すような仕事の連続」ではなかったか
と述べました(全集13)。
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「どんな主義主張にも捕はれず…
彼(対話するソクラテス)の表現は、驚くほどの率直と無私とに貫かれ…
躍動する一種のリズムが生まれ…
対話篇の真実さなり、力強さなりに引かれる読者は、知らずして、この生命力に倣ふ」(小林全作品28)

この驚くべき率直、
無私、躍動するリズム、
そして田中やプラトンのいう
条件因ではなく「本当の原因」から来る最高度の人間性とは、
日本においては
特定の「天才」や偉人の「思想」というよりも
むしろ
庶民や世間の生き方の中にこそ見出されるのであり、
じっさいまたそう考えた方が、
小林や田中が重視した
あの「思想」のあり方にも
適合しているように思われます。

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