doi_iku’s blog

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「新しい武士道」と忠臣蔵ε=┏(・_・)┛

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🔻日本社会を縦断する「義」のストーリー 


 忠臣蔵ほど、日本人の心を強くとらえた歴史的事件の物語も少ないでしょう。

文藝評論家の小林秀雄は、

「この事件は、歴史家によって全く軽んじられているように見える。

どうにも気に食わぬ」

と書きましたが(全作品23)

松の廊下の殿中刃傷(にんじょう)、吉良邸討入(元禄十五年<一七〇二>十二月十五日未明)、

一同切腹といった、

お馴染みのシーンを全く知らない日本人は、まず少ないと思います。 

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事件は、元禄の当初から庶民にもよく知られており、

切腹から十二日後には

江戸で事件に題材を取った歌舞伎が上演され、

三日で中止になったという話もあります。

当時、徳川家や武将をモデルとすることは禁止されており、

近松門左衛門は、舞台を南北朝太平記の時代に置き変えて上演しました(碁盤太平記等)

これら義士物(ぎしもの)と呼ばれる一連の戯曲の最高傑作が、

事件から四七年後、

大坂道頓堀の竹本座で上演された『仮名手本忠臣蔵』です(竹田出雲・並木宗輔・三好松洛の合作)。

初めて忠臣蔵のタイトルがついたこの芝居は

「古今の大入り」となり、

「独参湯(どくじんとう)(特効薬)」とも呼ばれ、

世間がいかに不景気でも大当りとなるような

特別な芝居となります。


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芝居は、吉良上野介高師直(こうのもろのお)に、

浅野内匠頭を塩谷判官(えんやはんがん)に見立てて脚色され、

師直は、判官の奥方の顔世(かほよ)に横恋慕し、

それを拒まれると俄かに顔色が変わる。

足利館で、塩谷判官に

「鮒だ鮒だ、鮒侍」と悪口雑言、

長袴を顔にはねかけて侮辱し、

判官はもう我慢がならずと刃傷におよびます。

急ぎ大星由良之介大石内蔵助が駆けつけたものの、

すでに判官は刀を腹に突き立てて、

「由良之介、この九寸五分脇差は汝(なんじ)への形見、我が鬱憤を晴らさせよ」と、

喉かき切って息絶えます。

史実では、大石はまだ赤穂にいるので、

一見、デタラメな話のようにも見えますが、

上記のセリフは、現実の討入での「浅野内匠家来口上」にある

「内匠末期残念の心底…家来ども鬱憤をさしはさみ…」

との文言を受けていることから分かるように、

当時の実情をある程度はふまえてドラマ化されています。

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討入やら仇討とはいっても、

江戸開府の元和(げんな)から元禄の八八年間で、

敵打(かたきうち)は二二件、

そのうち主君の仇討は、赤穂の一件しか起きていません(徳富蘇峰『近世日本国民史』)。

つまり、個人的で血縁的な私怨の敵討は多くあっても、

主君のための、まるで戦争のように周到に用意された、

公的な討入などは、全く前例がなかった。


こう考えると、忠臣蔵は、

もはや滅びゆくような、武士道のいわば懐古談ではなくて、

「新しい武士道の創出」の物語であったと考えられます(笠谷和比古ら『仮名手本忠臣蔵を読む』)。

つまり、かつての私闘的であった旧来の敵討を、

きわ立って公的で、組織的で、

当時の幕藩時代における体制的な困難や障害を見事に乗り越えた壮挙といった、

まったく斬新な武士道のイメージへと仇討を一新させることで、

天下の大評判を取ったと考えられます。

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また、吉良邸討入は、

戦国時代以来の喧嘩両成敗、

つまり、内匠頭も吉良も、同じく罰せられるべきとの

伝統的ルールを守らなかった幕府の裁定への抗議の意味もありました。

そうした戦国以来のルールが、

幕府政治よりもいわば習法的に権威を持ち、

芝居は大方の人気を博し、

あたかも被害者の関係者が加害者を殺す形での、

私刑による喧嘩両成敗であるかのような

歴史的で、慣習法的な

伝統思想の実現につながったように見えます(尾藤正英『江戸時代とはなにか』)

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けれども、

じっさいに討入という私刑(自力救済)を認めてしまえば、

幕府の裁定の否定になるため、

局、討入浪士は全員切腹となります。

もはや戦国時代と違って、

自力救済や私刑は法的には認められない時代でした。

また、現実の討入や芝居の忠臣蔵は、

私刑や私闘というイメージではなく、

際立って公的な武士道の仇討ちとして描かれました。

もはや戦国の自力救済や私闘の論理ではなく、

主君への恩義や恩顧に命を懸けて忠義を尽くすといった、

新たな武士道として、大方の人気を博したのです。

こう考えると、討入の物語としての忠臣蔵は、

幕府権威への抗議であるとか、

いや最終的には権力や体制への順応であったとか、あるいは、

自力救済か、公定救済かといった、

二分法的、二項対立的な図式的な理解だけでは、

十分な説明にはならないようです。

むしろ、旧来の自力救済(正)や

裁定や体制への順応(反)を超えた

別の次元の、新時代にむけた、

新たな弁証法的な発展(合)であり、

それが忠臣蔵という新しい武士道の姿ではなかっただろうか、

またそう考える方が、

以下にみるような、

庶民が支える武士道といった

新たな論理の出現といった点からも、

妥当性が高いのではないかと思われます。


国学、維新に向かう国民的道徳


というのも、

この際立って公的で、周到な仇討に、仮名手本忠臣蔵は、

色恋沙汰やら賄賂や

遊女の身請けやらの人情話をちりばめて、

本来ならば、武士が主役のはずなのに、

庶民がむしろ討入を支える形となり、

話は、身分や階級を超えて進んでいきます。

恋女房のため、武士の身分を捨ててはみたものの、

どうしても仇討に加わりたい一心の勘平(萱野三平)のいじらしさを見かねて、

舅の与市兵衛(小百姓)は、娘のお軽を遊女に売ります。

しかし、その舅を鉄砲で撃ち殺したと義母に誤解され、

勘平は思い余って切腹

すぐに誤解と判明しますが、しかし

もう勘平は虫の息。

この血染めの五十両を仇討の御用金に、と仲間に頼んで、

四六人目の義士として

血判状に署名しながら息絶えます。

さらに圧巻なのは、

堺の廻船問屋天河屋(あまがわや)義平(ぎへい)で、

大星のために武具一式を調達しますが、十手にかかり、

獲り手は、義平の息子に刀を突き付け、

さあこれでも白状しないかと脅迫しますが、

ここで有名な台詞が出ます(十段目。現代語訳)。


義平 「ハハハハハ、女子供を責めるように人質を取っての取り調べ。天河屋義平は男でござるぞ。…

商人(あきんど)ゆえに取らるる命、惜しいとは思わぬ。サア殺せ。

倅(せがれ)も目の前で突け、突け」


これを見て大星は、

「花は桜木、人は武士と申せども、どうして武士もこうは性根が据わらぬもの。貴公の一心を借りて手本としたい」

とまで称賛し、

討入の合言葉を「天」と「河」と決め、

「これで貴殿も夜討にお出(い)でも同然」と、

商人の天河屋を義士に準じる扱いとします。

これらは、いわば

町人からみた武士道の理想形であり、フィクションではありますが、

しかし、庶民の「義理人情」が、

武士の「忠義」を支えるというのが、

庶民の誇りであり、

願いであったとする構成となっています。

ほかにも、討入を支える者は、

俳諧師蕎麦屋、狩人、馬方など、

当時の社会階層のほぼ全階級にわたっています丸谷才一『忠臣藏とは何か』)

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また芝居ではなく、
現実の場合でも、
柳沢吉保のブレーンで、大石らの切腹の処分に大きな影響を与えた荻生徂徠であっても、
「情を推すに大いに憫むべし」(四十七士の事を論ず)
と同情を隠していません。
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公と私、虚と実、
身分や地域、対立する立場や思想的違いなど、
それら全てを超えて日本社会を縦断する「義」の国民的ストーリーというのが、
忠臣蔵の持つ魅力であったといえます。

延享元年(一七四四)、
伊勢松坂の樹敬寺(じゅきょうじ)の和尚が、
説法のついでに赤穂義士の話をしたところ、
小津彌四郎と称する十五歳の少年がおり、
いつも柱によりかかって居眠りしていると見えたのに、
家に帰るや、
話を一巻の聞書に書き上げた。
周囲を驚かせたこの少年こそ、
後年の国学者本居宣長でした(同全集20、解説および「赤穂義士伝」)。
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薩摩藩では、
毎年十二月十四日、
義士伝の輪読会が夜を徹して行われ、
郷中(ごぢゅう)という藩の子弟の二歳(にせ)の稚児から年長者までが一堂に行事に参加し、
赤穂義士といえば、薩摩藩の出身者かとまちがえるほど身近な存在」であったといいます(勝部真長『忠臣蔵と日本人』)。
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明治元年十一月五日、

明治天皇は、初の東京行幸の際、

勅使を義士の眠る泉岳寺に遣わし、

「汝、良雄等、固ク主従ノ義ヲ執リ、法ニ死ス。百世ノ下、人ヲシテ感奮興起セシム。朕、深ク嘉賞ス」

との勅語を宣下させました明治天皇紀一)

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忠臣蔵という、

庶民の義理人情と武士の忠義が、

互いに支え合い、

同じ「義」を実現して、

ついに一体化するという赤穂義士のストーリーは、

旧来の武士道や仇討のイメージを一新させました。

それは、武士だけでなく、

町人・百姓を含めた、社会の全階層を縦断するような、

より普遍的で、国民的な道徳としての「新たな武士道」を生み出していました。

そして、その国民道徳的な武士道が、

国学明治維新といった、

新たな時代に向って

「人ヲシテ感奮興起」させる精神的な土壌をつくり上げていた、

と考えられるようです。

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