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「形式的」でない「実質的」な憲法のはなし


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歴史のことば劇場⑥

▼「形式的」でない「実質的」な憲法の話

憲法という語は、
かつては国家の最高法規という現在の意味では使われませんでした。
たしかに明治初年、constitutionを「憲法」と訳しますが、
同13年、東大法学部は、
憲法でなく「国憲」という科目を設けています。
それが同15年、伊藤博文に欧州「憲法取調」の勅語が発せられ、
17年までに東大の科目が「憲法」に変わり、
今の憲法の語が定着します(穂積陳重)。
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そもそも十七条憲法の「憲法(いつくしきのり)」(日本書紀)も、
「厳しき法」や「明らかな道理」という意味であり、
御成敗式目にいう「憲法」は「一同の遵守すべき法や正理」のことでした。
また信長記(しんちょうき)に
「公事篇の儀、順路憲法たるべし、努々(ゆめゆめ)贔屓偏頗を存ぜず…」云々とあるのは、
法や道理という以上に、
組織原理や理念、
規範のことを指します。
現在でも、「憲法」の語は、
成文・不文を問わず、
国家の組織原理や規範の意味で使われます。
たとえば「古代ローマ憲法」とか
「イギリス中世の憲法」などというのがそれで、
法学者はこれを「実質的意味の憲法」と呼び、
むしろ制定法や成文の憲法典を、
逆に「形式的意味の憲法」と呼びます。
それは、
憲法のような憲法典は、
「内容においても表現においても、
実質的憲法法源としては
不完全」だからです(小嶋和司)。
いわゆる憲法解釈が
憲法には直接述べられていない国家生活の本質や立憲的原則などから導出される不文の道理…
社会の現実的必要にも充分な尊重をあたえて勘考すべき」(小嶋)なのは、
このためです。
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しかしながら、
この不文で、実質的な法が、
自然法自然権だけを指すと考えるのは早計です。
E・バークによれば、
人間のつくる法は不完全であり、
自然権は本来、
社会の古くからの定めや成文法の中に不十分な形で見出されるに過ぎない。
それゆえ、
成文法の内で自然法を定義するのは傲慢である。
人類は、
古来の不完全な状態から始めて、
神の定めた永遠なる正義に向けて努力し、
少しずつ歩み寄っているにすぎない(R・カーク)。
つまり、
この世は、現在の人間の思い通りに動くものではない。
各人の意思や思惑を超えた力、
歴史的な組織原理が存在し、
人間はその「道理」の働きを知るべく努めなければならないー
こうした、
実質的な道理の、歴史的な発見という考え方は、
日本では、鎌倉期の慈円愚管抄』に典型的に現れています。
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例えば、外国では
徳があれば国王になれるが、
わが国では御血筋でないなら
天皇になることは絶対にない、
それは「人事」に拠らず、「神代」からその道理は定まっている。
愚管抄』は
一人で書き上げた日本初の通史であり、
いわゆる万世一系の「道理」は、
漢文ではなく、
漢字仮名交じり文の日本語で著された。つまり、
記紀神話以来の、歴史叙述の伝統の中から発見されたのであり、
律令法や制定法から見いだされたものではなかった。
そして、
今日の「実質的な法」もまた、
「法の源泉であり原因であるところの…実定法を超えた至高の手続き」(バーク)、すなわち
形式的な現憲法を超える
実質的な「法の発見」によって歴史的に見出される。
それが「法の支配」という
本来の意味での「道理」であると共に
憲法改正に向けての
歴史上の鉄則であると考えられます。
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