doi_iku’s blog

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歌会始と国民統合

歴史のことば劇場59
  歌会始は、室町後期、後柏原天皇御会(うたごかいはじめ、1503から定着し、
現在のような貴人以外の一般からの詠進(えいしん)は、明治71874に始まったとされます。
このため、今の歌会始は、明治になって「創られた伝統」であり、
短歌を通して日本人を「国民化し、臣民化する」役割を果たしたとする研究もあります。
  しかし、同年の『明治天皇紀』は、
「従来御歌会始に詠進する者あれば、一般国民の歌と雖も採録して叡覧に供するを例とす」とし、
一般の詠進や天皇の御覧は、明治維新からではなく「従来」の「例」を引くと見ています。

新聞紙上に歌会始の御製から一般の選歌までが掲載されるのは、明治15年からですが、

新聞にいわゆる選歌欄が設けられるのは、正岡子規が同33年に新聞『日本』で始めてからです。

つまり、国民参加としての歌会始の先進性は際立っており、

選歌や御覧も、古来、万葉集東歌(あずまうた)勅撰集の「読人しらず」として庶民も選歌される伝統、

あるいは「貴賤と云ひ聖凡と云ひ、和歌を以て情を通ぜざるなし」(前参議教長卿集)との身分階層を問わず、世俗の秩序をも超えた「歌徳」(小川剛生)の伝統を発展的に継承したものと推測されます。

また「仏と云ひ神と云ひ、和歌を以て情を通ぜざるなし」古今和歌集教長註)との、仏神の境界ばかりか、人智や人力をも超え、あらゆる心情に通じるとする神仏習合的な思想も、古今集からつづく伝統のようです。

歌会始では「としのはじめに―イ」などと、一句ずつを区切り、独特の発声法で詠み上げるように、

和歌とは本来、文字で読むというより声を聴くものであり、宴席などの共同の場で披露され、皆で同じ歌を聴き、全身で感じて唱和する共同体の文学といえます。

それは近代文学のような個人の感情や思想を訴える表現とは異なり、

宮廷を中心とする場の文化であり、他者との交感や共感を、身心に皆で受け入れるものでした。

そうした自分ではない、他者の声を集中して聞くということは、

「自―他、内―外、能動―受動という区別を超えた相互浸透的な場に触れる経験」であり、

介護のケアの現場では、いわゆる「聴き取り」は、相手と呼吸を合わせることから始まるといいます鷲田清一

哲学者ロラン・バルト

「《私のいうことを聞いてください》というのは、《私に触れてください、私の存在することを知ってください》ということだ」と述べました。

  古来、天皇が国家を統治することを「聞し召す」と表現します。それはまさに「聞く」の尊敬語であり、
天皇は和歌を「聞く」ことを通して、癒し切れない人々の痛みや苦しみ、思いを「聴き取り」、国民と「呼吸を合わせ」「触れ」「存在を知る」ことで国家を統治しました。
  歌会始とは「自―他、内―外、能動―受動との区分」を超えて、あらゆる他者の思いや痛みに触れる「交感の場」を、宮中を中心に歴史的、文化的に形成してきたのであり、
古来のそうした「歌徳」の伝統を受け継ぐことで、いぜん近現代においても「国民統合」をもたらしている
と考えられるのではないでしょうか。










「資本主義文明」と日本の評価

歴史のことば劇場58

すぐれた人たちの考え方は、鋭く将来を見通すばかりでなく、
立場や職業の違いを超えて似ていることもありますが、
第二次大戦中、経済学者J.シュンペーターは、米国の政策はスターリンの術中にはまっている、と日記に書きました(トーマス K・マクロウ)

ソ連がいまや東欧を支配しており、ルーズベルト大統領はドイツと日本という「自然の塁壁を破壊する」ことで「米国の世紀を切り開いた」と考えているが、

実際は「スターリンのいいなり」であり、「本当にひどいことだ!」

外交官G.ケナンも、「日本が満州や朝鮮で背負った重荷や責任の苦しみに(米国は)一顧だに与えず」、戦後米国が「その痛さと苦しさをいやというほど味わっているのは……一種の天罰かもしれない」(『アメリカ外交50年』)と述べた。

シュンペーターの妻・エリザベス(彼女も経済学者)も、1941年の日ソ不可侵条約締結、45年の真珠湾攻撃を、それぞれ一年以上前に予見しています(マクロウ)。

エリザベスによれば、

米国は日本などが苦しんでいるのに自由市場を閉鎖し、自分は戦争をしたくないと強調しながら、他国には戦争を奨励している。

日本は中国に対して忌まわしい振舞いをしたが、我々も責任を共有しなければならない。なぜなら日本のいかなる侵略的な拡張も非難しながら、いかなる平和的な拡張も認めず、差別的な関税や輸入の数量制限を行い、人種偏見を背景に移民も事実上、禁止した。

しかし殆どの日本人は、国内では民主主義を、海外では侵略の終焉を望んでいる。また「中国から撤退して、真の敵のソ連に備えたいと考える」将校もいるのに、

彼らを助ける代わりに、道徳的に説教し、日本を自然な貿易から締め出し、何度も侮辱した(マクロウ)。

要するに、ケナンやシュンペーター夫妻にとって、

日本は一時的には米国の敵であっても、

長期的にはソ連共産主義の封じ込めのために必要不可欠な工業国であり、

日本の経済成長への彼らの高い評価も、そうした「長期的」な歴史認識から来るものだったと言えます。

またシュンペーターによれば、

資本主義の大量生産には、低所得層を実質的に豊かにする構造がある。

安価な衣服や靴、自動車などは、富裕層にはさほど有難みはない。むしろ女工たちの手にそれらを届け、入手の労力を減らし、仕事から解放される余暇という「新しい商品」も生みだした。

社会立法や大衆のための制度変更も、資本家が先鞭をつけた。それも強制されたというよりも、行動や思考の合理化が、社会立法の手法や意志を生んだのであり、

フェニミズムや平和主義、少子化も、本質的には資本主義の現象である。

さらに商工業ブルジョワジーには、紛争を不合理と見る傾向があり、

マルクス派がいうような「階級利益の構造上、資本主義の侵略戦争が起きる」との説明には無理がある。

資本主義とは、シュンペーターの理論によれば、終わりなき連続的で進化的な長期の過程であり、

たとえば政府当局の積極介入がなければ停滞するといったケインズ派の衰退論や短期的な観点からでは、発展の本質である「創造的破壊」という「革新イノベーション」の実態見落してしまう

こうしたシュンペーター流の「資本主義文明」とのボトムアップ型の論理こそが、

世界における対日認識の歪みを正したのであり、しかも日本を自由と民主主義の価値観を共有する同盟国と考え直させたかりか

ひいては、日本の発展や繁栄と本来「長期的」には、どのようにして実現される

現在の我々にも懇切に教えてくれているのではないでしょうか。










敗れざるリーダーの呼びかけ

歴史のことば劇場57


🔻ドゴールのよびかけ

先日、国連総会で岸田首相は安保理改革を訴えましたが、

第二次大戦中、ドイツに敗れ、占領されたフランスは、もしドゴールが亡命先のロンドンから徹底抗戦を叫ばなければ、戦後、戦勝国となれず、常任理事国にも列せられなかったといわれます。

1940617日、仏政府首班ペタン元帥は、ドイツに休戦を求めると表明したが、翌日ドゴールは、BBCラジオ放送で「フランスの抵抗レジスタンスの焔は消えてはならず、消えることもない」と述べました。

「希望は消え去らねばならないか? 敗北は決定的か? 答えはノンである……私は現状をふまえて話している……

フランスにとって失われたものは何もない。わが軍を打ち負かしたのと同じ手段がいつの日か勝利をもたらすだろう。

なぜならフランスは一人ではないからだ。フランスは一人ではない!……背後に広大な帝国が控え……大英帝国は海洋を掌握し続け、闘争を継続し……フランスは英国と同様に米国の巨大な工業を際限なく使用できる

この戦争はフランスの戦いによって決まらない。この戦争は世界戦争である。すべての過ち……遅延……苦痛がありはしても、世界には我々の敵を粉砕するために必要な手段のすべてが存在する」

すでにパリは陥落し、英国は断崖に立ち、ソ連はドイツと盟邦となり、アメリカもいまだ救援に来る意思を見せないとき、

一介の准将がひとり「私を信ぜよ、戦え」と叫ぶ。

これは小説家モーリヤックも述べたように殆ど狂人の行為に似ていました村松剛)。

しかし「誰しも断念した恐るべき空虚を前に、私の使命は突如、明瞭になり、事態は凄惨なものに思われてきた……我々の史上最悪の日に、自らフランスを持って任じるのは私の責任だった」(ドゴール大戦回顧録

ラジオ演説ではフランスは英米と共に世界戦争を戦っているとの構想を示した。

いまだ勝敗は決まらず、自由社会の全ての実力を背景に逆転する―この見通しは、紆余曲折あっても概ね予言通りに進みます。

奇しくもウクライナ大統領ゼレンスキーによるロシアとの戦争の考え方に似ているようですが、

一国が敗北するのは、ドゴールの信念によれば、戦意を失ったときだけJ・ジャクソン)でした。

ドゴールの「自由フランス」に参じた兵士によれば、

1940年の敗北は、フランス人を結ぶ全ての絆を切断し、過去の全てがとりのぞかれた。

しかし「ドゴールがこの空隙を、フランスへの情熱とフランスに対する強迫の観念とで埋めた」

「全霊を捧げることは自らを隷属におくことを意味しない……無記名の人民投票……ドゴールこそ我々がその中に希望を見出した人である」

傷つけられ、屈辱に苦しんだ人々は「われら最初のひとり」のドゴールの元に結集した。

ドゴールはフランスの制度とは「名誉と祖国」そして「自由・平等・博愛」をすべての発想の源とすると述べました4111月)

それはキリスト教と自由、聖ルイの伝統と人権宣言との和解J・マリタン)であり、

その歳月の奥底から立ち上る「歴史と自由の地平」の宣明とともに、

彼は「絶望しないフランス、屈服しないフランス」の体現者となり、

あらゆる政争も思想の違いをも超えて「敗れざる国民の指導者」となったと思われます。













“核持ち込み”と現代思想

歴史のことば劇場56


 近時、ロシアの専横で核軍縮の国際交渉が頓挫したそうですが、

戦後日本の沖縄返還と「核」との間に深い関係があったことは有名です。

昭和3912月、佐藤栄作首相はライシャワー駐日大使と会談し、同10月に核実験を行った中国に対抗して「相手が核を持つならば、自分も持つのは常識」といい、

密かに核装備と憲法改正の認識を示します。

しかし翌年正月、日米首脳会談でジョンソン大統領は日本の核保有に反対し、核攻撃には米国が防衛する意思を伝えると、

佐藤は「まさに…私が問いたかったこと」と即座に応じました。また共同声明には、沖縄の施政権の「できるだけ早い機会に返還」との日本側の要望が入り、

「大統領は…理解を示し…」との一定の譲歩の表明をも引き出します。

佐藤は有名な沖縄初訪問408月)を前にして、核武装改憲を持ち出し米国に日本防衛を確約させ、同盟の強化と共に沖縄返還への道を拓いたといえます。

じっさい、42年秋、スナイダー国務省日本課長らは、返還後の基地機能に影響するのは核貯蔵とB52の自由発進の二点にすぎず、

それは日本のアジア防衛への積極姿勢で補えるとする報告書を提出し細谷千博、返還は現実化に向かいます。

さらに佐藤・ニクソンの「核密約4411月)及び共同声明によって、「有事の核持ち込み」は、沖縄のみならず本土基地まで必然的に拡大適用されます。

沖縄返還とはいわゆる「核抜き・本土並み」の返還ではなく「有事核持ち込み・本土の沖縄化」(室山義正)でした。

また佐藤は、自らの政策スタッフに、「この世界で最も貴重なものは自由である。自由の下においてこそ、政治的成功があり、経済的繁栄がある。

我々は一歩も後退してはならないし…政治、経済、軍事のすべての面で、共産主義陣営より少しでも優位に立たなければならない。

バランス・オブ・パワーではなく、我々が少しでも優位に立つことが自由と平和を保つ道である」

とのドゴールの言葉をよく語っていました千田恒

この「自由の優位と平和」に、米国による核持ち込みは不可欠ですが、

しかしながら「非核三原則」とは明らかに矛盾します。

M・バフチンの文学理論に従えば、ドストエフスキーの小説では、相異なる思想同士による《ポリフォニー(多声法)》の対話が表現されており、

一方、それ以前の啓蒙主義や合理主義は、あまりにも単一的、《モノローグ(単声法)》的で、二者択一的な結論ばかりを求め、この世を統一的、画一的に操れると思っていた。

けれども、現代では、いわゆる「核廃絶」と「核抑止」論という明らかに「相反」する思考が

「それぞれ独立し互いに溶け合うことなく…れっきとした価値を持つ声」として響きあう《ポリフォニー》の世界が存在します。

いまや一方的な結論しか許さない画一的で、排他的な《モノローグの近代》は過ぎ去った。

むしろ相反する価値が並び立つ《ポリフォニー》という自由と多様性、繁栄の世界へと、

沖縄返還と「核」状況の下、そうした「現代」思想の新しい時代が到来し、

やがてそれは世界的にも「自由社会」の要件の一つとなるのではないでしょうか。
















9条の改正と歴史認識

歴史のことば劇場55

 

 
  ウクライナ紛争の影響なのか、
最近の世論調査では憲法9条の改正賛成が、反対を上回っていますが、

 

しかし9条は、戦後の絶対平和の思想には由来しません。むしろ1928年の不戦条約にその淵源を持っており、

九条第一項が「国権の発動たる戦争」や「武力」を全て放棄するとせず、

わざわざ「国際紛争を解決する手段としては」との留保を付すのは、

不戦条約第一条に同様の留保があるからです。

このため、9条が自衛活動まで放棄する趣旨でないことは明らかですが、

しかし不戦条約には、上記の「公的」な解釈とは異なる「戦争違法化」という別の潮流がありました。

米国のレヴィンソンらによる「戦争違法化」運動は、紛争解決として戦争自体を「追放」し(米国を含む)

犯罪として国際法上の法典化や国際法廷における「裁き」を求めました。

この「戦争違法化」の潮流の延長上に、かの自衛権までも否定する特定の憲法解釈、および「平和に対する罪」で日本国を裁いた東京裁判の判決文があります。

しかし、これらは不戦条約締結当時のケロッグ米国国務長官の発言、

すなわち、自衛権や不正な戦争としての侵略の定義は不可能であり、

「条約によって…法律的概念を定めようとするのは平和にとって利益にならない」、むしろかえって争いをもたらすとする公定解釈(牧野雅彦)とは、明らかに異質の思考法でした。

対ソ「封じ込め」政策で有名なG・ケナンは、

不戦条約違反として満州事変を弾劾したスティムソン・ドクトリンなどの手法を「法律道徳主義(リーガリスティックアプローチ)」、

すなわち米国外交によくある法律的規制によって諸国の野心を抑制できるとする「信念」と呼んで、きびしく非難しました。

ケナンによれば、彼ら法律道徳主義者の脳裏にある「世界秩序」とは、

「自分たちの法律上の諸概念を国際的事件にあてはめ…他国が服従し…尊重」しさえすれば「世界の安全と平和は保障されると信じ」るような非現実性があり、

また対日戦争とは、ハル国務長官が法律道徳主義に「耽溺した結果」とも述べました。

じっさい、スティムソンやハルは、戦争違法化を求める新・国際法学の「良き理解者」(篠原初枝)であり、

その反対にケナンは、スティムソンが「生みの親」である国際軍事裁判に徹底して批判的でした(日暮吉延)

さらに「平和に対する罪」も、ニュルンベルグ裁判所の規定を決定するロンドン会議において、

モスクワ大学教授トライニンの著書『ヒトラー主義者の刑事責任』の用語から命名されており大沼保昭

「侵略」をめぐる国際法論議は、戦後になってもソ連の安全保障と明らかに親和性がありました。

さらにケナンの「封じ込め」やマーシャルプランは、彼の法律道徳主義批判との「歴史認識」と直接に関係しており(三谷太一郎)

日米講和への道程も、「封じ込め」のケナンと「反共」の吉田茂との「認識の一致」中西寛に始まりました。

要するに、戦後の日米同盟や自由諸国の全体主義に対抗する結束は、

上述の「戦争違法化」運動や法律道徳主義とは明らかに異なる論理から形成されました。それゆえ、九条の改正も、不戦条約当初の思想まで立ち戻り、

結果的に平和よりもむしろ戦争をもたらした同運動や法律道徳主義の「歴史認識」から脱却し、

共産主義全体主義と対峙した自由主義の思想的な根拠とは一体何だったかを明瞭にすることで、

その本来の目的を達成できると考えられるのではないでしょうか。

 

 
 

象徴の「現代的」な本義

歴史のことば劇場54


先日、エリザベス女王在位70周年に関する報道がありましたが、

憲法象徴天皇制が、英国の立憲君主制をふまえて成立したことはよく知られています。

GHQ民政局がマッカーサーに帝国憲法改憲案を提出した際の説明(昭和21/2/21)によれば

天皇は、朕は国家なりということではなく、国の象徴となる。…国民の間の思想、希望、理念が融合して一体化するための核、あるいは尊敬の中心として存続する」(高柳賢三ら)

などとありました

民政局長ホイットニーは、当時、声を張り上げ、

天皇にはすべての尊厳dignityと名誉honorが与えられる、しかし実際政治に介入しないのが、新憲法に関するマ元帥の考えだ

と述べた(高柳)といいます

じっさい憲法草案に「象徴」と記したのは、プール海軍少尉とネルソン陸軍中尉ですが、

彼らは、W.バジョット『イギリス憲政論』を参照したとされ、同書には、

「国民は党派をつくって対立しているが、君主はそれを超越している。君主は表面上、政務と無関係である……敵意をもたれたり、神聖さをけがされることがなく、神秘性を保つ……君主は、相争う党派を融合させ……教養が不足しているためにまだ象徴を必要とする者に対しては、目に見える統合の象徴となる」などとあります。

しかし、この「教養が不足」云々は、

国王の権力は民衆の愚劣さに基礎を置くパスカルといった西欧近代特有の思想を受けており、

マッカーサーらの示した天皇への深い敬意とは印象を異にします。プールも後年の回想で

「象徴」とは「精神的な要素を含んだ高い地位」「単なるお飾りではない」「天皇は、直接的には政治上の権限は持たないけれど、ある重要な役割を持った、国民に尊敬される立場にある」(鈴木昭典)などと、

上述のマッカーサーへの改憲の説明やホイットニーの主張にも近い証言を述べています。

またプールらが参照したのは、1867年のバジョットの原書ではなく、

1928年以後の「世界の古典」版と推測され中村政則

後者には英国外交官バルフォアの「緒言」が巻頭にある。プール自身も「象徴」とは、

1931年のウェストミンスター憲章によるもの―国王は英連邦構成員の自由な結合の象徴(前文)―といい、

バルフォアは、同憲章の元となるバルフォア報告の作成の代表者でした。

そして世界の古典版のバルフォアの緒言に曰く(深瀬基寛訳)

英国の王位には、古来の国家構造の他の大方の部分と同様に、近代的な側面が一つある。

「わが国王はその皇統と職務により、わが国民の歴史の生きた代表者」であり、バジョットのいう民主的性格を隠すもの(「仮装された共和制」)ではなく、かえってその性格を顕わにする。

「国王は一党派の指導者でもなく、一階級の代表者でもない。一国民の元首……万民の王である…種々雑多な社会、その位の上下を問わず…すべてを結ぶ運命を予定された一つの紐帯である」

このため、現憲法上の「象徴」とは、少数の選良と多数の愚者から構成される「仮装された共和制」との近代的で、19世紀的な理解に拠るのではなく、

むしろより現代的な理解、万民の王としての元首、全階層の自由や権利、社会の多様性をも保証する、

立憲主義と民主主義の歴史の「象徴」ではないだろうか。

またかつての、君主か、それ以外か、至高の主権が一体どこにあるのか、といった二項対立的な理解ではなく、じっさいはノモス(高次の法規範)に主権がある(尾高朝雄)。

つまり条文上、だれが主権者であれ、あらゆる権力は絶対でなく制約されるとする「法の支配」の原理の「象徴」と考えておくのが、妥当な理解ではないでしょうか。











「自由の勝利」へ向けたcommitment

歴史のことば劇場53


 台湾有事に「関与する」、(それが)アメリカのcommitment〈※公約、責任〉だ」―

先日の日米共同会見におけるバイデン大統領の発言ですが、

ウクライナ危機に米国やNATOは直接に関与できず、ロシアの侵攻を止められなかった。

しかし、台湾有事には「関与」の意思を明示して断固阻止しようとしています。

当然、同盟国・日本も、共同作戦の体制を強化するようですが、思えば、

昭和26年の講和条約や旧安保条約は、あくまで対等を前提とする軍事同盟の観点から見れば

「お世辞にも同盟条約とは呼べない内容」坂元一哉でした

西村熊雄(当時、条約局長)は、後の回想で「日本は施設を提供し、アメリカは軍隊を提供する」、

「物と人との協力だ。相互性は保持された」と巧みに表現しました。

しかし「物(基地)と人(米軍)との協力」という関係には、生命に関する重大な責任の片務性、非対称性があることは明らかで、

この片務性から脱し、

相互性、対等性へと発展させる歴史は、35年の岸内閣による安保改定に始まります。

新安保条約は、旧条約が日本の安全のためとした体裁を、「極東の平和と安全」のためと改めた上で、

米国の日本防衛および日本の基地提供との義務を明示し、

「日本国の施政の下にある領域」での武力攻撃には、日米で共通して対処する(5条)との相互防衛を盛り込んだ。

沖縄返還の前後では、基地問題を超える同盟のあり方自体が課題となり、

佐藤首相はニクソンとの日米共同声明1969で、米軍の即応が不可欠な韓国、台湾の安全は、日本にとって緊要と表現し、

同返還では「核抜き・本土並み」を原則としつつも、秘かに有事の際の核持込み・通過に関する合意を米国側と交わした。

また、ニクソンドクトリンで米国は、同盟・友好国に「第一義的責任」との相互防衛の責任分担を求め、

1978年のガイドライン(日米防衛協力のための指針)では、有事の際の日米防衛協力、共同計画・演習、情報交換などが盛り込まれた。

80年代のシーレーン防衛では、米軍第七艦隊への海上補給に日本は協力し、湾岸戦争北朝鮮危機をへて、

97年の新ガイドラインでは、日本への直接攻撃でなくとも、周辺事態や後方地域支援に対処する枠組みが作られた。

「物(基地)と人(米軍)の協力」を超える「人自衛隊と人(米軍)の協力」は、

こうして日本領域外へと広がり、かつての「片務性、非対称性」から「相互対等性」へ、

将来の集団的自衛権行使の責任分担へと向けた道筋がついた。

かつて吉田茂は、日米の協調について「自然かつ必然…巧まずして発展生成し…」と語り、

講和報告の国会での首相演説(昭和26では、「日本が集団的安全保障とりきめを自発的に結ぶことができるのは明らか」と述べましたが、

台湾・アジア有事へ向けた今日の「共同対処」とは、数十年を超えて「相互対等性」をめざした、日米同盟の「自然かつ必然」の歴史から生まれていた。

つまり、同盟本来の責務を誠実に果たすことで、自由主義陣営の結束を固めたのであり、

またそれは「自由の信条」が最終的に全体主義に勝利するための、

歴史的で、現実的な「commitment〈責任〉」であったと考えられるのではないでしょうか。