doi_iku’s blog

LINEブログから引っ越しました。

二つの戦争論とその帰結

歴史のことば劇場52


「歴史的な円安、インフレ水準」―

近時よく語られる言葉ですが、

第一次大戦後のJ.M.ケインズ『平和の経済的帰結』1919によれば、

レーニンは、資本主義を崩壊させる最善の方法は通貨価値を下落させることと断言した」といいます。

「インフレが長引けば、政府は誰にも気づかれず国民の財産の大部分を没収できる」

レーニンは確かに正しかった…既成の社会基盤を覆すのに通貨価値を下落させるほど確実な方法はない」

「(統制による)偽りの通貨価値が維持されても、最終的な経済衰退の種が潜んでいる」…

昨今も、いかに多くの貨幣が利用可能になろうと、企業に投資を強要はできず、

現代の戦争も、景気後退への傾向をまったく解消しないことも明瞭になったようですが、

一方で、レーニンクラウゼヴィッツの『戦争論181618に著作で触れています。

クラウゼヴィッツは「本来、戦争とその結果は絶対的なものではない…一国が敗北しても、それを一時的な災厄と見て、戦後の政治的な情勢を利用し、挽回することができる」

「戦争とは他の手段をもってする政治の実行である」と述べました。

つまり、戦争はいかなる場合も政治の手段にすぎず、政治の上位に位置してはならない。

しかし、第一次大戦やその後におけるルーデンドルフの「総力戦」の構想は、クラウゼヴィッツ戦争論を逆転させた入江隆則

ルーデンドルフは、クラウゼヴィッツは最早「時代遅れ」であり、総力戦では「総括的政治は戦争に奉仕」する、

また「政治的事項の一切を軍の最高指揮官の権力下に置く」とともに、敵の抵抗の能力と意思を粉砕し、全面降伏を追求すると考えた。

「軍隊は戦争の必要から作り出された『機械』だったが、その機械が今や戦争を生みだした」(J.シュンペーター

ヒトラーは、ルーデンドルフを盟友と呼び、

レーニンは、社会主義の戦争は「正義の戦争」であり、「社会主義者は、革命戦争の反対者であったことはない」と書いた。

また元来マルクスは、「イギリスの旧体制を破壊し、プロレタリアを権力の座につかせるのは世界戦争だけ」と述べていた(S.ナサー)。

総力戦によって「絶対的」な戦争が政治に優位する転倒現象が生じ、

さらに全体主義社会主義革命の影響によって、戦争は「限定的」な目標を失い、世界戦争を誘発したようです。

G・ケナンによれば、

核兵器が出現したことで、総力戦の「自殺的」な遂行は不可能になった。我々はタレイランのいう「諸国民は、平和時には、互いに最大の善を、戦争には、可能な限り最小の悪をなすべし」との思想に回帰すべきだ。

ギボンは「18世紀の西欧諸国が、控え目な、決定的でない戦闘で訓練された事実」をあげていた。

それゆえ「軍事力による強制の策略も、将来は、政治的目的の追求には絶対的でなく、ただ相対的な価値しかないことを人は知らねばならない」……

このケナンの言う「抑止的」な戦争観に、戦後の自由主義陣営はいち早く「回帰」したものの、

しかし全体主義国では、いぜんとして無差別破壊、武装解除、無条件降伏といった「絶対的」な総力戦の思想が払拭されず、

結果、あのプーチンの非合理な決断、現今の終わりなきウクライナ侵攻にまで引き継がれているのではないでしょうか。













自由主義陣営に生きる「不動の決意」

歴史のことば劇場51


ロシアによるウクライナ侵攻が世界を震撼させていますが、

1943年末、カイロ会談でルーズベルト大統領は、蒋介石に対し、

中国は沖縄に関して権利を主張するつもりはないかと一度ならず質問した。

これに対して蒋は、

中共同で琉球諸島を軍事占領し、ゆくゆくは国際機構の信任統治制度のもと両国で共同管理することで賛成していました(渡辺昭夫)

いっぽう、マッカーサー

沖縄人は日本人とは人種的・文化的に異なる存在であり、歴史的に搾取されてきたとし、

軍事的で、戦略的な統治の観点から、沖縄が元来日本の主権の下にあることを認めませんでした。

沖縄をめぐる状況は、まさに予断を許さず、

昭和229月、昭和天皇は、御用掛の寺崎英成を通じ、総司令部のシーボルド政治顧問に秘密メッセージを伝えます。

「米軍が沖縄、琉球諸島に対する軍事占領を続けることを希望する」、

それは「主権を日本に残したままでの長期―25年ないし50年またはそれ以上の―租借方式という擬制fiction)に基づいて」行われ、

米国が沖縄に「如何なる恒久的野心も持っていないと日本国民に確信させ…ソ連や中国が同様の権利を要求することを阻止するであろう」と。

この英文は、昭和54年に米国で発見され、現憲法に反する天皇の政治的行為を示すため、国会でも議論になりましたが、

当時天皇

蒋介石が占領に加はらなかったので、ソ連も入らず、ドイツや朝鮮のやうな分裂国家にならずに済んだ。

アメリカが占領して守つてくれなければ、沖縄のみならず日本もどうなつたかもしれぬ」入江相政日記5)

と回想しています。

秘密メッセージを発した天皇の真意は、

米国の軍事力を背景に、ソ連や中国の脅威から日本の安全を守るばかりでなく、

マッカーサーの“沖縄は日本ではない”という分離方針を、あえて長期の基地租借を逆提案することで回避し、

本土と沖縄の分断を阻止することにあったようです。

G・ケナンが室長の国務省政策企画室は、2210月、天皇の長期租借の「示唆」に注目しながら、

軍部らによる戦略的統治は説得力がないとし、その代案として長期租借方式の検討を「特別勧告」します(R.エルドリッヂ)

天皇の秘密メッセージは、米国外交筋における日本の主権に関する柔軟な見解と、絶妙なタイミングで符合しましたが、

日本が敗戦状況から脱し、講和、日米同盟への基盤が築かれるのも、

2223年頃の、反共主義吉田茂と「封じ込め」のケナンの見解との一致に始まる中西寛)といわれます

271月22日、講和批准後の国会開会式で、天皇

平和条約については、すでに国会の承認を経て、批准を終り、効力の発生を待つばかりとなったことは、諸君とともに喜びに堪えません。…

わたくしは、全国民の諸君が、六年余の長きにわたり、わが国に寄せられた連合諸国の好意と援助に対する感謝の念を新たにしつつ、新日本建設の抱負と誇りをもって、今後の多くの困難を克服する不動の決意をさらに固めることを望むものであります。…」

とのお言葉を述べられた。

E・バークによれば、

諸国家は文書や印章で結びつくのではない、「相似していること、符合していること、同感できることにより結びつくように導かれる。

それらは条約以上に力を持つ、精神に明記され義務である」と論じましたが、

その相似し、符合し、一致同感できるまでに至った「精神に明記された義務」によって、

自由主義陣営の一員として生きる日本側の「不動の決意」は導かれていったのではないでしょうか。









「声なき奴隷」の言葉を排す

歴史のことば劇場50

 

「平和維持」「特別軍事作戦」「非ナチ化」――

ウクライナ侵攻をロシア側はこう呼び、中国はそのロシアの行動を「理解する」と述べました。

かつて「ニュースピーク」とGオーウェルが呼んだ、典型的なプロパガンダが、

いぜんとして全体主義の社会を覆っているようです。

オーウェル動物農場1945の序として書かれた文章には、

「もし自由になんらかの意味があるとすれば、それは相手が聞きたがらないことを相手に告げる権利をさすのである。

庶民は今でも何となくこの主張に従い、それにもとづいて行動している」

とあります。

この自由や権利が存在しないのが、全体主義の特徴であり、

G・スタイナーは、

戦後ドイツ文学の混迷や停滞は、ナチの贋(にせ)の言語による影響と論じました。

旧ソ連時代のM・バフチンドストエフスキー詩学(第2版、1963によれば、

西欧の啓蒙主義者や合理主義者に特徴的な思想とは、《モノローグ(単声法)》の思想であり、

彼らは、あまりに単一的で、二者択一的な結論ばかり求め、

この世を意のままに、統一的、画一的に操れると考えている。

だが、啓蒙主義とは異なり、ドストエフスキーの小説世界には、

相異なる思想同士による《ポリフォニー(多声法)》の「対話」が実現されている。

ドストエフスキーは「声なき奴隷たち」を描いたのではない。

むしろ、彼と肩を並べ、

反旗を翻す能力を持つ自由な人間たちを創造し、

「それぞれに独立し互いに溶け合うことのないあまたの声と意識、

それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴である」(望月哲男・鈴木淳一訳)

 

文学理論を超えた、巧みな思想批判に見えますが、そうしたバフチンに従えば、

ドストエフスキーの文学の形式上の起源は、古代中世の《カーニバル》文学の笑話にまでたどりつく。

半ば現実、半ば演技の形式による「全民衆的なカーニバルの世界感覚」に従って、禁忌や恐怖から解放され、

教条主義的な体制の絶対化や敵対的な一面性に代わって、自由で無遠慮な人間同士の接触が力を得る。

オーウェルもまた、思想と言論の自由とは、過去四百年の西欧文明の産物であり、

ミルトンの詩に「古来の自由の知られたる掟によって」とあるように、

「古来」との言葉は、「知性の自由が深い根をもつ伝統であり、これなくして文明の存在は疑わしくなるという事実を、つよく訴えている」

と論じました。

現代経済学の指摘では、

高度な技術革新には、ある特定の制度の下で自然に発生し普及するパターンがあり、

それは自由や権利が広く保証される「包括的(ヽヽヽ)制度」の産物であり、

その対極にあるのが「収奪的(ヽヽヽ)制度」(Ⅾ・アセモグル)といわれます。

全体主義は、世界的な収奪や衰退というばかりでなく、

「古来」の自由や多様性、

文学の伝統の持つ庶民性を高度に発展させた《カーニバル》や《ポリフォニー》の対話世界を、

暴力や恐怖を用いて崩壊させ、

啓蒙主義や合理主義の一方的な《モノローグ》が響きわたる

「声なき奴隷」の社会へと退行させるのではないか。

いまのロシア側の主張や侵攻を擁護する声が異様なほどグロテスクであり、聞くにたえないのは、

それは恐らく「声なき現代の奴隷」の言葉だからであろう。

その対話や相互理解の全てを拒否する、頑迷で、非人間的な態度は、

古来の自由の掟に反し、

文学の庶民性の伝統に反している。

また、啓蒙主義や合理主義に由来する「モノローグ」に類する、

一方的で、一面的な主張の、不愉快な繰り返しではないでしょうか。

 

 


 

 

 

 

 

 

「テキストの身体化」が高度な独創を生む

歴史のことば劇場49


江戸時代の教育は「素読(そどく)」を基礎としますが、素読は単なる音読とは異なります。

師匠が『孝経』や『大学』の一字一句を「字突(じつき)」で指しながら訓読し、

それを子弟が復唱する「付読(つけよみ)」が短時間で行われ、家に帰って何度も復習する。

次回は、前回部分を正確に暗唱できるかの点検に始まり、少しでも間違えれば次に進むことは許されない。

一日百字、これを百回もくり返せば、誰でも一年半で四書を読めるようになり貝原益軒)、一節を聞けば、次の文が流れるように口に出るという。

素読とは、孔孟の言葉や思想を身体にそのまま埋め込む「テキストの身体化」であり、

この素読の徹底により、古典の「文体」にもとづき思考し、行動する共通の型や慣習がつくられたと考えられます(辻本雅史)。

素読の次の「講義」の段階も、個人的な主張の場ではなく、注釈書にもとづく講釈が中心であり、

次は「会読(かいどく)」といって、共同で読書し、解釈や議論を自由に交わす共同学習の段階へと進みます。

会読や輪講は、全国の私塾や藩校でも広く行われ、仁斎や徂徠の学問の基礎となり、

杉田玄白らの解体新書の共訳、吉田松陰の子弟教育なども、この会読の輝かしい成果(前田勉)でした。

また、素読吟味(試験)の厳格な実施にともに、寛政改革後の昌平黌の成立、藩校の全国化など、

従来は「家」に任されていた子弟教育は、幕府や藩が系統的に管理するようになり、

教育が多くの人材の育成や登用の場となる「学校教育の近代化」が始まります(小山静子)

いっぽう、現代思想の論者たちは、

古典教育や学校による規律化や身体化は、「権力=知」が社会に浸透する過程であり、

「知」による規制の内面化や自主的な抑圧を生むと批判します。

Ⅿ・フーコーは、試験(学力・診断・就職)は、精神医学、学校教育、労働雇用にいたるまで、権力側(教師・医師・雇用者)から他の側(生徒・患者・労働者)への規格化の強制であり、

人間の可能性の排除と考えました(S・J・ボールら)

けれども、『武士の娘』の著者杉本鉞子(えつこ)は、明治維新後の長岡藩で六歳から素読を受け、

古典を「音楽」のような調べとともに暗唱し、それは後に「光の閃き」をもって心身に再現されたと回想します。

後年、米国コロンビア大で、着物、丸髷姿で日本文化を講義した杉本の英文著作は、

アインシュタインタゴールR・ベネディクトらから絶賛を受けました(多田建次)

素読や会読は、現代思想のいう「制度化された知」「規律の身体化」でありながら、

実際は、独創的で、国際的な日本人を輩出する文化的な土壌をつくりあげました。

現今の「テキストの身体化」といえば、アニメや漫画、ゲームなどの視覚・映像文化が考えられますが、

世界を熱狂させる日本発のアニメなどは、日本人の生き方や考え方、価値観をまさに「身体的」に伝えており、

この現代の「テキストの身体化」「文体」が、新たな時代に向けた独創や発見を世界にもたらす、と考えられるのではないでしょうか。








国土・国境の尊厳

歴史のことば劇場48


古来、日本の国境は必ずしも明確でないとされ、
平安時代追儺(ついな)(※疫鬼を域外へ払う儀礼祭文には
東方陸奥、西方遠値嘉五島列島、南方土佐、北方佐渡」を「四方之(ほとり)」とあります。中世では、
東は外ヶ浜青森県海岸部)、西は鬼界ケ島(鹿児島県三島村・十島村の諸島)が「境」と意識されました(新田一郎)。

けれども、国境の不明は、必ずしも境界意識の希薄を意味しません。

鎌倉後期の密教の書『拾葉集』によれば行基は日本地図を独鈷(とっこ)(※密教法具)の形で描いたとし、

国生み神話の天瓊(あまのぬほこ)伊勢神宮(しん)御柱天皇の神璽、国土を海底で支えている大日如来の印文梵字

いずれも神聖な独鈷の形であり、日本は異国の侵略を受けないとします。

金沢文庫日本図」は、龍が列島を取り囲む図で描かれ、

諏訪大明神絵詞』は、同神が大龍となって暴風を吹かせ、蒙古の大軍を全滅させたと述べます(黒田日出男)

龍神が外敵から国土を守り、独鈷の形によって日本の内外を分かつ。

この宗教的イメージこそが、国境以前の〈バウンダリー(boundary)〉の萌芽であり(新田)、

秀吉や家康の発したキリスト教禁令には「神国」思想も反映された。

それと同時に、鎖国の海禁から国土領域は自然と定まり、

中世の神国思想が、近世の「早熟な国民国家」形成と共に、国際状況への対応を決定する要因になりました。

沿岸部を詳細に記した伊能忠敬大日本沿海輿地全図1821は、蝦夷を最初の測量地としたように、

ロシア南下の対外不安を作成契機とする地図(R・トビ)でした。

ロシア漂流民によれば、日本人は「インペラトリ(帝国)」との上席の待遇を受け、

徳川斉昭が黒船に関して「開闢以来の国恥」と激怒した理由は、諸国が日本を「帝国とあがめ尊び、恐怖致し」ているのに、

米国が勝手に測量するなど無礼を働いたからで、この行為は当時の国際法に違反していました(平川新)

アヘン戦争直後の箕作省吾『新製輿地全図』『輿図識』18445は、当時の蘭語による最新情報だけを使った驚くべき地誌ですが、

世界の記述を「皇国」から開始したように(三谷博)蘭学者も、国学や水戸学と同じ世界認識を共有しました。

新渡戸稲造『武士道』1900によれば、日清戦争の勝利は、単なる銃砲や技術の勝利ではない、

朝鮮・満州での勝利は「我らの手を導き、我らの心臓に鼓動する父祖の御霊による」ものと述べました。

近年、米国は安保条約第5条(共同対処)尖閣諸島への適用を明言し、

「第三国による一方的な行為(※中国による侵犯などを想定)」は、米国の認識に影響を及ぼさず、

東シナ海はアジアの共有海域の死活的一部」と位置づけました2013年度国防授権法への修正条項。R・エルドリッヂ)

古来の「神国」から近代的な「帝国、皇国」、「父祖の霊地」、そして現代の死活的な「共同対処」へ――

歴史伝統とは「頭脳というより、いわば血の産物」であり、この熟練した事業の系譜(T.S.エリオット)につらなることで、

日本の国土・国境の尊厳は守られてきたのではないでしょうか。









安定と価値観の時代へ

歴史のことば劇場47


   近時、インフレや石油高騰の懸念が報じられますが、

1970年代の石油危機やインフレについて、香西泰『高度経済成長の時代』(昭和56などのスタンダードな著作に従えば、

昭和48年秋、日本経済は既に年率2割の物価上昇にあり、そこに石油危機が襲い、

化学品、鋼材、セメントなどが不足し、

トイレットペーパーや洗剤が店頭から消える騒動が起きます。

また、前年からの列島改造ブームで、土地投機から地価暴騰が生じ、

卸売物価や消費者物価が上昇し、所得格差も広がります。

ただし、田中角栄日本列島改造論』自体は、過密と過疎の同時解消にねらいがありました。

いわく「人口と産業の大都市集中は、繁栄する日本をつくりあげる原動力であった。

しかしこの巨大な流れは地方から若者の姿が消え年寄と重労働に苦しむ主婦を取り残す結果となった。

このような社会から民族百年を切りひらくエネルギは生まれない。

かくて私は、工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークをテコとして、人とカネとものの流れを大都市から地方に逆流させる地方分散を推進することにした」

また「所得の拡大は一日の行動半径に比例する」

「大型タンカーの活用によって日本は世界最大の油田をもつのと同じ」

「新25万都市…インダストリアル・パーク」「創意と努力さえあればだれでもひとかどの人物になれる日本」

など、今読んでも魅力や説得力あるビジョンを示しました。

じっさい、田中内閣は、金利引下げ、新幹線計画、2兆円減税、福祉拡充、国債増発の大型予算も打ち出します。

しかしこれらは、いわば歴史的な前進である一方で、ニクソンショック、円切上げなど過剰流動性のなか、

石油危機から年率4割超の狂乱物価の通貨インフレを招き、

結果、福田赳夫蔵相のもと財政緊縮、金融引締めに転じ、

49年度は戦後初のマイナス成長に陥ります。

こうした石油危機から安定成長の過程は、じつは意外にも古典的な資本主義のルールに導かれており、

政治や官庁主導というよりも、企業や家計、地域が草の根レベルで敏活に反応したことが、決定的に重要でした。

いやむしろ公共部門拡大への依存は、かえって危機を招き、その見通しは誰であれ容易ではなかったといえます。

また、70年代は、日米同盟の深化から朝鮮半島・台湾・ベトナムへの防衛が推進され、

現今にいうところの、自由と民主主義の価値観を共有するアジア太平洋圏の形成の前兆が見えた時代でした。

加えて、貿易自由化、変動相場、石油危機をへて、日本の自動車、家電、製作機械などの生産は世界の首位に迫り、

いわば普遍的な価値観や自由主義の原則に従って、日本的慣行や制度、行動様式は、その実力や真価を発揮していました。

自由とは「意識の領域を拡大すること」(G・オーウェルであり、

現今のような人口減少ながらも多様性が求められ、過剰な公的債務ながらも巨大な金融資産を保有する状況では、

高い所得中心というよりは、むしろ物価や通貨の安定のもと、普遍性や価値観の共有の面で世界的な役割を果たすことから、

新たな革新や成長を見いだす時代となる、と考えられるのではないでしょうか。











農業という伝統産業

歴史のことば劇場46

 
日本の歴史は、ある意味、お米の生産の生産の歴史であり、

江戸期から現代まで、全体的に稲作生産は上昇しますが、

最大の画期は、戦後の高度経済成長期まで時代が降ります。

また生産性が、高度成長期までほぼ同一水準の地域が多くあり、

作柄の変動幅も、江戸期に比べて不安定性を示す地域が少なくなかった(佐藤常雄)

一般的に欧米の影響を受けた近代農法に高い評価を与えすぎで、

むしろ江戸期以来の「在来農法」が全国へと広がり、平準化していく過程が、日本の稲作の特徴といえます(同)

この在来農法を広く伝えたのが、江戸期の農書(農業技術書)であり、

北は津軽から南は琉球まで、元禄から享保期に集中的に現れ、この時期、

一定の文化的水準が農民層に広がり、先進技術への知的欲求が地域を超えて拡大します。

「日本一の農書」とされ、殆どの農書に影響を与えた宮﨑『農業全書』1697は、百数十の作物の栽培法を記し、

全ての百姓が農術に長けて「飢寒」から逃れることを願うとともに、

天・地・人の「心」に通じる「祈り」を農業の中核に据えた「天道」思想の書でした。

「稲を生ずる物は天である。稲を養うものは地である。…人の貴い理由は、天の心を受け、万物をめぐみ、養う心が、自ら備わっているからである」(現代語訳)

江戸時代は、こうした天道思想のもと、高い生産性と高度な精神性とを共に身につけた百姓が、全国に輩出する「農書の時代」ともいえますが、

明治以後、欧米の自然科学が、この長い歴史のなかで培われた農法に浸透します。

稲、蚕、野菜、花など多数の品種改良が進むほか、

台湾では永吉らが開発した蓬莱(日本種との交雑種)により農家の収益は約3割増え、

八田與一が指揮した有名な南大圳(用水路)の建築などから、

台湾の水田面積は日本統治から昭和13年までに2.7倍強、生産高は4.6倍近くに増えた。

朝鮮でも米生産量は同年までに約2.2倍、平均収量も2倍弱に増えます(西尾敏彦)

戦後、西日本から東日本に稲作の重心が移ったのは、

軽井沢の農家・荻原が開発した油紙保温折衷苗代法の普及以後とされ、

この手法は、昭和6年の大冷害で早植えの稲に被害が少なかったことから発見され、

昭和17年にはすでに完成していた。

しかし、豪雪地帯には通用せず、地元の要望を受けて開発されたのが室内育苗法で、

この(ちびょう)植えの普及こそが、

戦後最大の技術革新である田植機の成功をもたらします(昭和40

さらに、コシヒカリが既に敗戦前に新種開発されたのと同様に、

果物の「ふじ」「巨峰」「佐藤錦」などの高級品種も、戦前から戦中期の技術革新から生まれました。

いわば「昭和のレトロ技術」が、昨今の農産物輸入自由化という時代の荒波に敢然と立ち向っています(西尾)

現代農業が近代以前の膨大な蓄積の上に成り立つことは明らかで、

日本の稲作や農業は、最も高度に発達し、世界に影響を与えてきた伝統産業の一つと考えて誤りないのではないでしょうか。