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「テキストの身体化」が高度な独創を生む

歴史のことば劇場49


江戸時代の教育は「素読(そどく)」を基礎としますが、素読は単なる音読とは異なります。

師匠が『孝経』や『大学』の一字一句を「字突(じつき)」で指しながら訓読し、

それを子弟が復唱する「付読(つけよみ)」が短時間で行われ、家に帰って何度も復習する。

次回は、前回部分を正確に暗唱できるかの点検に始まり、少しでも間違えれば次に進むことは許されない。

一日百字、これを百回もくり返せば、誰でも一年半で四書を読めるようになり貝原益軒)、一節を聞けば、次の文が流れるように口に出るという。

素読とは、孔孟の言葉や思想を身体にそのまま埋め込む「テキストの身体化」であり、

この素読の徹底により、古典の「文体」にもとづき思考し、行動する共通の型や慣習がつくられたと考えられます(辻本雅史)。

素読の次の「講義」の段階も、個人的な主張の場ではなく、注釈書にもとづく講釈が中心であり、

次は「会読(かいどく)」といって、共同で読書し、解釈や議論を自由に交わす共同学習の段階へと進みます。

会読や輪講は、全国の私塾や藩校でも広く行われ、仁斎や徂徠の学問の基礎となり、

杉田玄白らの解体新書の共訳、吉田松陰の子弟教育なども、この会読の輝かしい成果(前田勉)でした。

また、素読吟味(試験)の厳格な実施にともに、寛政改革後の昌平黌の成立、藩校の全国化など、

従来は「家」に任されていた子弟教育は、幕府や藩が系統的に管理するようになり、

教育が多くの人材の育成や登用の場となる「学校教育の近代化」が始まります(小山静子)

いっぽう、現代思想の論者たちは、

古典教育や学校による規律化や身体化は、「権力=知」が社会に浸透する過程であり、

「知」による規制の内面化や自主的な抑圧を生むと批判します。

Ⅿ・フーコーは、試験(学力・診断・就職)は、精神医学、学校教育、労働雇用にいたるまで、権力側(教師・医師・雇用者)から他の側(生徒・患者・労働者)への規格化の強制であり、

人間の可能性の排除と考えました(S・J・ボールら)

けれども、『武士の娘』の著者杉本鉞子(えつこ)は、明治維新後の長岡藩で六歳から素読を受け、

古典を「音楽」のような調べとともに暗唱し、それは後に「光の閃き」をもって心身に再現されたと回想します。

後年、米国コロンビア大で、着物、丸髷姿で日本文化を講義した杉本の英文著作は、

アインシュタインタゴールR・ベネディクトらから絶賛を受けました(多田建次)

素読や会読は、現代思想のいう「制度化された知」「規律の身体化」でありながら、

実際は、独創的で、国際的な日本人を輩出する文化的な土壌をつくりあげました。

現今の「テキストの身体化」といえば、アニメや漫画、ゲームなどの視覚・映像文化が考えられますが、

世界を熱狂させる日本発のアニメなどは、日本人の生き方や考え方、価値観をまさに「身体的」に伝えており、

この現代の「テキストの身体化」「文体」が、新たな時代に向けた独創や発見を世界にもたらす、と考えられるのではないでしょうか。