日本の皇室が世界から驚きのまなざしを向けられるようになるのは、
十世紀の頃までさかのぼります。
太宗は「これ蓋し古の道なり」
「これ朕の心なり」と嘆息し、ひるがえって
中国は唐末から戦乱が続き、天下の諸地方は分裂し、王朝も短命で、大臣や名家でも後を継がせた者は少ないと述べました。
それ以前にも、寂照(じゃくしょう)は、
著名な詩人楊文公(ようぶんこう)と語り、日本に存する中国の数多くの古典や名著、日本書紀などを挙げており(1006)、
これは五代の動乱で散逸した書籍の蒐集・復興につとめた宋朝では、
羨望に堪えなかったろう(森克己)といわれています。
鎌倉期には、
異国では不快でも、本朝で吉例とすればよい、憚る必要なしとして「天福」の年号を採用します(森)。
鹿ケ谷の変(1177)では、平清盛は関係者の処分を後白河院に奏上し、
強制的に源定房を上卿(しょうけい。主宰者)として院の定議を決めさせますが、
九条兼実は「我が朝之風、已に漢家之礼に同じ」(玉葉)と評し、
中国の政治は、権力支配や武力政治の典型と目されていたことがわかります。
「わが朝風俗は和歌を本とす」
こうした論法も平安末期から現れ、やがては
「和歌は礼楽を整え、国は治まり、異国に敗れず、仏法も、大国を上回るのは、まさに和歌の徳である、宋は和歌なく、礼楽を助けず、仏法は廃れ、異賊のため国を失った」(野守鏡。現代語訳)
とする歌論も現れます。
西欧が自分たちの模範としたギリシャ・ローマなどは、いわば「滅亡した文明」であるのに対して、
中華文明は、日本にとって「唯一の…永続性をもった巨人」であり、
その「圧倒的優位は常に日本人の旺盛な自我意識を覚醒」させたといわれます(Ⅿ・ジャンセン)。
しかし日本における「中国批判」とは、じつは一千年以上の歴史を持ち、
その自意識と批判の基点には、
彼の地にはみられない一系の皇室、社会の安定性や継続性、非権力的な「有徳」のイメージがありました。
つまり、自国には世界に通じる普遍的価値があると考える確信こそが、
中国批判の史上最初にして、最大の根拠であったと考えてよいようです。