doi_iku’s blog

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人は見た目かー名著に見る「シアワセの形」


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▼なぜか「美人排斥」「不美人成功」論


 一昨年(平成29)、『人は見た目が100パーセント』というTⅤドラマが話題になり、

それ以前に、平成17年に『人は見た目が9割』竹内一郎という本がベストセラーになったこともありました。

ああ、人は外見か、やっぱりねと、

タイトルだけ見てもそう思った人も多いかと思います。

 

ところが、上記の竹内氏による「見た目」とは、

「顔」のことではありませんでした。

本書によれば、近年の心理学によると、

人間が会話などで、言葉で伝えている情報は、わずか7%にすぎず、

残り93%は、顔の表情や声の質、テンポ、身だしなみや仕草も大きく影響している、とあります。

つまり、著者によれば、

人間は、言葉やその内容ではなく、

話し方や表情、マナーやタイミングの方が、

はるかに豊かな内容を伝えている、

それゆえ、これからは言葉や文字ではなくて

「非言語的なコミュニケーション」の時代であり、

身体的なイメージの方がより大切になる時代である、と。

なるほど。

でも、「非言語的」云々というより、

ホントのところの「見た目」の良し悪しの方は、

どうなのでしょうか?

顔の美醜どころか、

肌つや、体型、服装のセンス、髪型などで、

人は全然イメージが変わりますが、

しかしこれがどこにもハッキリとは書いてない。

むしろ明らかに避けていると思われますが、しかし

世の名著というか、道徳的な本は、全然違います。

ズバリ見た目、それも、損か得かについて論じています。

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(//ここらあたり

二段落ぐらい文章が飛んでます❗

大変スイマセンが、

次回の掲載欄でご覧ください_(._.)_人( ̄ω ̄;)(´-ω-)人)



あるお金持ちの家に可愛い女の子が生まれたが、生まれつき眉毛がなかった。

歯もお歯黒のようにまっ黒で、年頃の14歳になってもそれが直らず、

口さがない連中は

「かたわだ」(現在では明らかに不適切な表現ですが)

「らい病だ」「あの家の裕福さの報いだ」と、

殆ど差別まがいの悪い噂をふりまく。

両親は悲しみ、必死で医者に見せ、神仏に祈り、

全財産にかえてもと、八方手をつくしますが、

何の効果もない。

かたわ娘の不幸は、

当人ばかりか両親にとっても大きな嘆きでした。

「しかし」と、福沢は続けます。

福沢諭吉「かたは娘」(明治5年。現代語訳)

…しかし、娘が二十歳すぎになると(つまり婚期を逃した年齢になると)、不思議に誰も何の噂もしなくなった。両親はふさわしい婿を探して結婚させた。

すると「かたわ」とよばれた娘は、立派に一家の主婦となり、両親の心配も、あとかたもなく消えた。

…ああ、この娘は、不幸に生まれて、幸せを得たというべきだ。

もし外国で不具に生まれたら、一生結婚できなかったに違いない。

幸い日本に生まれたので、結婚すれば、皆と同じ、眉のない、お歯黒の「かたわ」で、立派な主婦になれたのだ……。

 福澤が、お歯黒や眉を剃る(江戸時代では既婚女性である場合が多い)などの古い習俗を、

まるで「かたは」と同じであり、

日本でしか通じない奇妙な風習として、

からかっているのは明らかです。

人の顔の良し悪しなど、

ヘンテコな因襲や偏見と、

何も変わりがない。

だから、

時代や状況が変われば、

他人の見方や評判などは、

あっけないほど変ってしまう。

福沢は、修身教科書の決めつけ、あるいは弱者への同情論とは違って、

現実的で、実態を暴露するような考え方をします。

つまり、世間の評価とは、

そんなもんだ、

その人の立場や地位によって

ガラッと変わるんだ、

それは先入観や偏見にすぎない、

そんなものに一々、かかずらわってどうする、

大した意味ないんじゃないか、

だってアッサリ変わることもあるんだよ、

と言っているように聞こえます。


往時、女学生の数は、

大正期で10万人、

昭和10年代に60万人を超え、

進学率では

男子の中学進学を追い抜きました(唐澤富太郎『女学生の歴史』)

すでに、中等教育な段階では、

男女平等どころか、男女逆転の時代であったともいえるのですが、

これが戦後になると、

もはや、修身教科書のような美人攻撃ではなくて、

「みんなで『私は美人だ!』といおう」三宅艶子とか、

「百人いれば、魅力も百通りある」落合恵子

「知性の美」、「働く美」、「個性の美」といった、

いかにも戦後的な個人的というか、女性進出的な物言いが、

ずらっと現れます(前掲井上)

けれども、「みんな美人だ」とかいう言い方は、

要するに、

民主主義や平等となった時代の方が、

美醜については「語りにくい」

「さし障りがある」のであり、

人々はいわば「偽善的になった」

といえるのかもしれません(井上)

そうした遠慮がちな傾向に反発するかのように、

平成になると

「ブスな女がカッコいい」「あなたの良いトコ探します」つんく♂LOVE論』平成10)などと、

有名人から美点を見つけてもらい、わざわざ教えてもらうような本が、

ベストセラーにもなったこともありました。

けれども、

「ブスがかっこいい」とか「あなたも良いトコある」というのも、

どこか「みんな美人だ、それでいいんだ」式の偽善や遠慮を引きずっている感は、否めません。

  

▼弱点にこだわるな(福田恒存


けれども、こうした「みんな美人だ」「みんな違って、みんないい」式の、

偽善というか人間平等の精神というか、あるいは機会均等のような考え方に対して、

かつて、劇作家で評論家の福田恒存(つねあり)(1912~94)は、

次のように述べました(『私の幸福論』。初出は昭和31~32)。

福田によれば、

雑誌の身上相談を見ると、浮気されたの、男に捨てられたのという相談がよくある。

けれどもそうした訴えを読むたびに福田は「一種のもどかしさ」を感じるという。

「そのもどかしさとは、一口にいえば、

悩みを訴えるひとの顔が見たい

ということであります。顔を見なければ、とても答えられないという気がするのです」。

それはひどい、随分な言い方だと思われるかもしれないが、

身上相談とは、いつも「女性という女性が、みんな同じ魅力をもって生きているという仮定のもとに答えるのです。私のように意地悪く顔が見たいなどとは申しません」。

けれども、「醜く生まれたものが美人の同様のあつかいを世間に求めてはいけない」。

そこに不幸の原因がある、と福田は言います。

よく世間では、顔は拙(まず)いけれど心は良いとか、ここはマイナスだがここはプラスだといいたがる。

しかし、その考え方では、永久に弱点は消え去らない。永遠に弱みが無くならない、厳然と存在しつづける。

いやむしろそれらは「無意識の領域にもぐりこんで、手のつけられない陰性のもの」になる。

それがひがみであり、劣等感(コンプレックス)であり、

一番やっかいなのだ。

だから「醜(しゅう)、貧(ひん)、不具(ふぐ)、その他いっさい、持って生まれた弱点にこだわるな」。

むしろ短所をすなおに認めること。こだわらぬこと。

そうすれば、他に埋め合せの長所をしいて見つけなくとも、短所を認めるすなおな努力そのものが生きてくる。いつの間にか「長所を形づくり、隠れた長所が現れてくる」、と。

こうした福田の議論は

「例外的な人生論」(前掲井上)だといわれます。

そういえば、福田以外は、

弱点やひがみを正面から認めるというよりも、何とか見ないようにして、あえて論じない話か、

何かにすり替える話ばかりが目立ちました。

近年のベストセラー本であっても、こういう平等論の偽善から逃れていません。

福田によれば、

世間には「なるべく触れたがらない」話がよくあります。

しかし、真実は「たいていそういう世間がなるべくふれたがないもののうち」にひそんでいます。

そうなると、

「例外的」な福田の話の方が、よっぽど「役に立つ」のであり、

短所をすなおに認めて、「こだわらない心」を養う方が、

むしろ「人間の生き方、幸せのつかみ方」に近づけるのではないでしょうか。


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